第六回
川上健一Kenichi Kawakami
「うん。気が変わった。だけど逃げるんでねど。小澤がいった通り、俺は休暇中で携帯は切ってるしニュースも見てないから、公正取引委員会が俺の行方を追っていることを知らないってことだ。どっかでとっつかまったら知らなかったっていえばいい。夏沢みどりが函館から札幌に移った住所も分かったんだ。あこがれの夏沢みどりちゃんを探そうぜ」
「ちょっと待てよ。そんな能天気いってる場合じゃないんじゃないか。知らなかったっていったって世間はそうは見ないぞ。今日一日くらいはそれで済むかもしれないけど、何日もとなったら絶対に逃げていると思われる。規模が最大級の談合事件みたいだから、逃げれば逃げるだけ世間の関心が高くなって、そのことを連日報道されてお前は世間から本当に極悪人のレッテルを貼られてしまうんだぞ。もしかしたら逃亡の罪も加わってより罪が重くなるかもしれないじゃないか。お前はいいかもしれないけど、奥さんや子供や孫たちまで世間からあれこれ意地悪されて肩身の狭い思いをしてしまうじゃないか。家族のことを考えたのか?」
「俺のことは心配するな。それをいうなら心配なのはお前らの方だ」
「俺はいいよ」小澤はあっさり承知して笑う。楽しそうだ。「もう何十年もドキドキ、ワクワクすることなかったから面白そうじゃない。ドキドキは史上最大の極悪人の山田との逃避行。ワクワクは水沼の初恋探し。夏沢みどりがどんな風に変わってるか、会ってみたくなってきたしさ」
「お前、そんなこといって、山田が捕まったらニュースになるんだぞ。もしかしたら一緒にいた我々の名前が出るかもしれない。仕事とか家族は大丈夫なのかよ?」
「まるで問題なし。もう仕事も家族も関係ない」小澤はあっけらかんといい放つ。続けて一気にまくしたてる。「仕事なんて、俺は現場仕事が好きなのに、六十歳を越えたその日から高いところに登らせてもらえない。キャタツに上るのもダメ。一段でもダメ。労働規則なんだよ。労働法で定められている。特に大手の建設会社が絡む仕事だと規則にとことん厳しいから作業させてもらえないんだよ。もしも事故が起きたら規則違反だって役所からマスコミから袋叩きにされてしまうからね。山田はその辺の所は分かっているだろうけど、だから六十っていう規則が徹底してるんだよ。東京スカイツリーの工事の時だって、優秀なフリーの鳶(とび)職人が何人も、六十になったというだけでその前日に解雇されて、仕事ができなくなってホームレスになった人もいるっていう話だ。一日違うだけで突然仕事してはダメだっていわれるんだぜ。ひどい話だよ。だから現場に行ってもブラブラしてるだけでちっとも面白くないし、情熱もわかないから、実質、会社は息子にまかせている。もう引退しようかと思っていたくらいだから何の影響もないよ。それに家族のことはもうどうでもいいしさ」
小澤は投げやりにいうと小さく笑う。
「どうでもいいって、何かあったのか?」
と山田。
「うん、まあ、ちょっとな。大したことじゃないけどさ」
「ちょっと待てよ」水沼はグイと身を乗り出す。「お前が大したことじゃないという時は深刻なことが多いぞ。どうしたんだ? 家族のことで何かあったのか?」
「いやあ、大したことじゃないんだよ。カミサンと別れることになりそうだってだけだよ」
「別れる?」
と水沼。真顔だ。小澤は仕事や家族のことで冗談をいったことがない。
「離婚ってことか?」
と山田も身を乗り出す。
「まあ、大したことじゃないけどさ、そんな感じになりそうなんだ」
「分がったど。イガ、妾を囲っていて、それで子供もいて、そのことがレディー・カガ様にバレてしまったんだろう?」
「んまあ、とにかくカミサンとは別れるってことで話が進んでいる。だから俺が何をしようとどうなろうと関係ないってことだよ。だけど、お前はまずいよね」
小澤は肯定も否定もせずに答えてから水沼にいう。
「そうだよなあ。水沼は俺たちみたいにいかないだろう? 社長だけど現場でバリバリやってるし、広告業界はクリーンなイメージが大事だから、制作会社の社長が談合の容疑者と一緒に逃避行しちゃ具合悪いよな。仕事が無くなってしまうだろう」
と山田。
「まあ、なあ……。事件性のあるニュースで名前とか会社名を公表されたら、スポンサーと広告代理店から切られてしまうよなあ。レディー・カガも世間を歩けないってふさぎ込むかもなあ」
「だよねえ。山田、俺はいいけど水沼に迷惑かかるからやっぱり旅行は中止しよう」
「待て待て。いいか水沼。俺たちは何年ぶりかの夏休みだから、この休みは仕事と家庭から解放されてとことん楽しもうってことにしたんだ。嘘だけど。だから俺が追っかけられているっていうニュースは誰も知らない。これも嘘だけどな。俺がどこかで捕まってお前たちが事情聴取されたとしても、まるで知らなかったととぼければいいことだ。そんなことより初恋だ。夏沢みどりちゃんだ。お前は俺の時計を動かしてくれたんだよ。せっかく動いた時計を止めたくないんだ。夏沢みどりちゃんを探そうぜ」
山田の目がギラリと輝く。精気がみなぎっている。
- プロフィール
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川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。