第一話 金泥の櫛(くし)
島村洋子Yoko Shimamura
もうひとりの花魁の名は龍田川という。
これはいわずとしれた在原業平(ありわらのなりひら)の「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」という名歌からとられたものである。
神代の昔からでも聞いたことなどない、びっしりと紅葉が浮いて錦の織物のようになった龍田川が深紅に輝いているという意味の歌から名付けられた。
その名の示すとおり、錦の帯のようにきらきらと輝く美貌の娘となった幼い禿を幸兵衛はいまでも信じられない気持ちで眺めることがある。
ある雪の夜、両国橋(りょうごくばし)のたもとで行き倒れになっていた若い女のこととともに。
その晩の女が抱いていた乳飲子(ちのみご)がここまで大きく美しくなるとは。
ただどんなお大尽が来てもどんな身分の高い者が来ても龍田川を本気にさせることはできないと噂されていた。
龍田川を惚れさせることができるのは、いにしえの光源氏(ひかるげんじ)か在原業平だけだと同じ花魁の一津星が冗談めかして笑っていたが、本当かもしれないと幸兵衛は思っていた。
そのふたりを頂点にさまざまな女郎が存在するのだが、中でもこれはと思う何人かを見つけて、
「おまえには特に目をかけているんだよ」
と陰に呼び出して偽物の櫛と笄の一対を手渡した。
それらを売られても困るし誰かに自慢しても困るので、
「他の者が妬いてもいけないからね。内緒にするんだよ」
と念を押した。
すると不満を持った様子だった女郎も急に人が変わったように働きはじめたりするのだから女心というものはわからないものである。
人を動かすということはとどのつまり、金か物かなのだなと身も蓋もないことに気づいた幸兵衛だったが、わかったからにはこれを利用しない手はない。
万にひとりでもこれがまがい物だとわかる女がいたらそれはそれで別の才があろうというものである。
とにかく我ながら妙案を思いついた、と幸兵衛はほくそ笑んだ。
偽物の櫛は活躍を始めた。
- プロフィール
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島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。