第一章 横須賀
八木澤高明Takaaki Yagisawa
はじめに
京浜急行快速三崎口(みさきぐち)行きは、横浜駅のはずれにあるホームを出て、戸部駅を通過しトンネルを抜け、日ノ出町駅を過ぎると、高架の上を走る。すると、進行方向左側に、この車窓からしか見ることができない景色が飛び込んでくる。安普請の屋根の上にエアコンの室外機がずらりと並んだ、かつての売春街黄金町の風景である。
もう今から十五年以上前の話になるが、私は眼下に広がる黄金町をきっかけに日本各地の色街を歩きはじめた。
その頃の黄金町には、タイや南米から来た外国人の娼婦たちがいて、二百五十軒ともいわれるちょんの間(ま)や大岡川沿いの桜並木に立って客を引く立ちんぼがいた。黄金町の売春街としての歴史は、戦後直後に遡る。もともと、日本人の娼婦たちしかいなかった街には、日本が経済的に豊かになると、じゃぱゆきさんと呼ばれた外国人女性たちが流れ込んでくるようになっていたのだった。
黄金町をはじめて目にしたのは、中学生の頃だった。釣りが好きだった私は、横浜港に毎週のように足を運んでいたが、その道中に黄金町があった。その頃、娼婦とは知らなかったが、見馴れない原色の服を着た女たちの姿に一風変わった街だなという思いを持った。それから十年以上が過ぎ、写真週刊誌の仕事をしている時、たまたま目にした雑誌に外国人娼婦が溢(あふ)れているという黄金町に関する記事を読んで、興味が湧いて足を運んでみたのだった。
私が目にしたのは、じゃぱゆきさんの街となった黄金町だった。ちょんの間の入り口に立つ外国人女性を原色のライトが照らす様は、現実のものとは思えない空間であった。
それから、黄金町に通いはじめた。非現実の空間に見えたこともあり、そんな場所がいつまでも続くようには思えず、娼婦や街の姿を記録しようと思ったのだった。娼婦たちが体を開くちょんの間だけでなく、暮らしていたアパート、さらには生まれ故郷であるタイやコロンビアにも足を運んだ。娼婦たちの中には、HIVに感染し日本で命を落とす者もいた。
その取材を通じて、娼婦が体を売るというのは、彼女たち自身が豊かになりたいという動機も当然あるが、それだけではないことも知った。母国に暮らす家族のために身を捧げるという、かつて日本でも一般的であった家族関係。さらには日本と娼婦たちの出身国の経済格差というものが、行為の源泉にあるということである。
そして、色街というものは、ある日突然、そこに現れるのではなくて、横浜でいえば港湾労働などで流れ込んできた男たちの性欲のはけ口として、町外れの川沿いにあった黄金町に娼婦たちが集まり、色街が形成されていった。売春というものが、特に戦後直後には、特定の場所が赤線として合法化されていたこともあり、経済とも密接に結びついていた。
現在の日本では売春は違法であり、タブーとなっている。ところが歴史を遡っていくと、むしろ合法化されていた時代の方が遥かに長く、日常の一部として存在していた。
- プロフィール
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八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。