第五章 千歳
八木澤高明Takaaki Yagisawa
北海道の千歳に足を運んだのは、今では色街の面影が薄れているが、かつては札幌をしのぎ、この街が北海道一の歓楽街であったと知ったからである。そこまで殷賑(いんしん)を極めた理由は、海軍航空隊の基地からはじまり、米軍へと繋がる軍都だったことにある。歴史にifは禁物であるが、もし軍隊との繋がりがなければ、千歳は北海道の空の玄関口にはならなかったかもしれない。
千歳の歴史を振り返ってみると、千歳という地名は江戸時代後期になってつけられたもので、それまでこの土地はアイヌ語で大きな窪地を意味するシコツと呼ばれていた。江戸時代中期に記された地図を見ると、シコツと書かれている。日本海側と太平洋側を結ぶ要衝でもあり、街道が走っていて、江戸時代にはシコツ越えといわれた。その後、シコツという地名は、死骨に通じて縁起が悪いということで千歳になった。江戸時代には、アイヌと和人が交易をする千歳川会所が設けられ、賑わいをみせたという。
明治時代に入ると本格的に和人の入植がはじまり、札幌への宿場町として栄えたが、一八九二(明治二十五)年に室蘭と岩見沢間に鉄道が開通すると、宿場は寂れていくようになった。さらに一九二六(大正十五)年に札幌市内の苗穂(なえぼ)と苫小牧市の沼ノ端に鉄道が開通されることになり、宿場がますます寂れるのは目に見えていた。ところが、この鉄道建設が千歳の新たな扉を開くことになった。
というのは、鉄道開通に合わせて、小樽新聞社が鉄道を利用した旅行を計画し、千歳の人々に昼食の用意を依頼した。そのお礼に小樽新聞社が当時所有していた飛行機で、千歳上空を飛びたいと伝えたところ、千歳の人々は飛ぶだけではなく、せっかくなら着陸した飛行機を見たいと要望したのだった。人々は急遽、飛行機が着陸できるように整地したという。それが飛行場ができるきっかけとなった。
当時北海道には四機しか飛行機はなく、飛行機自体が貴重なものだった。飛行機が無事着陸すると、千歳に着陸場があることが知られるようになり、一九三四(昭和九)年には王子製紙などの寄付によって、着陸場を拡張した飛行場が完成したのだった。
一九三五(昭和十)年には陸軍航空攻防演習、その翌年の北海道陸軍特別大演習では飛行場が基地として使われた。一九三七(昭和十二)年、大湊海軍航空隊が千歳飛行場を海軍航空隊の飛行場とすることを正式に決定した。その決定により、それまで侘(わび)しい寒村だった千歳が大きく変貌するのだ。飛行場の拡張には囚人を動員してすすめられ、一九三九(昭和十四)年十月に開隊式が行われた。
千歳の村民たちの飛行機を見たいという無邪気な願望から土地が整地され、戦雲の広がりとともに北海道がソ連やアメリカと対峙するうえで重要な土地と認識されると、海軍の飛行場ができた。一八八〇(明治十三)年には二百九人だった人口は、昭和十四年には一万人を超えた。
そして、軍隊の存在とともに、色街が形成されるのである。神崎清著の『売春』(徳間書店)によれば、三軒町に三十人の慰安婦がいたという。三軒町という地名は、現在は使われておらず、喫茶店主の鈴木さんにも聞いても、「ちょっとわからないですね」という返事だった。
そこで鈴木さんが編集にも関わった『清水町』という資料に目を通してみると、三軒町に関する記述があった。それによれば、昭和十四年に海軍航空隊が開隊すると、兵隊たちの息抜きの場所として、料飲店ときわ・二葉・胡月の三軒が現在の清水町三丁目で営業をはじめたという。その当時は町名がなかったこともあり、三軒町と呼ばれるようになったそうだ。終戦後二葉と胡月は廃業したが、ときわは、進駐軍将校向けの倶楽部として営業したという。
これはあくまでも推測となってしまうが、この三軒は料理を提供するだけではなく、私娼を置いていた可能性がある。この三軒ができたことにより、他にも私娼たちに兵隊の相手をさせる店が集まってきたのだろう。米兵たちで賑わったという清水町のルーツは日本軍相手の慰安婦にあった。
- プロフィール
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八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。