第五章 千歳
八木澤高明Takaaki Yagisawa
米軍の進駐と街の変化
終戦とともに、千歳には米軍がやってきた。最初に進駐してきたのは、十月四日に函館に上陸した第八軍第九軍団第七七師団だった。同師団は日本本土上陸作戦に投入される予定だった部隊で、日本軍と米軍が激闘を繰り広げたフィリピンのレイテ島でも戦っていたこともあり、翌二十一年二月にはアメリカに帰還し、かわって仙台から第十一空挺師団が進駐した。一九四九(昭和二十四)年には、第七歩兵師団が入れ替わりで進駐するが、翌年に朝鮮戦争が勃発し、朝鮮に派遣された。手薄になった日本の守備のため、一九五一(昭和二十六)年に派遣されたのが、オクラホマ州第四十五歩兵師団一万二千名だった。
当時の千歳市の人口は二万人ほどで、州兵はそれまでの人口の半分以上に当たる数だった。これまでにない大規模な部隊が進駐した千歳は、朝鮮戦争の特需と相まって、大いに栄えていく。州兵とは予備役の役割をもつ部隊で、平時は災害現場などに派遣されることが主な任務であった。千歳で訓練を施され、いずれ朝鮮半島へと派遣されることになっていた。州兵たちは明日をも知れぬ身ということもあり、休みともなれば千歳の街へ繰り出したのだった。それにより、千歳は、北海道で一番大きな規模の色街に変貌した。
神崎清著の前掲書に、昭和二十七、八年頃の千歳におけるパンパンハウス及びビアホールの分布図が載っているが、それによれば、現在のJR千歳駅から清水町にかけては、路地という路地にそれらの店があって、街全体が巨大な歓楽街となっている。
パンパンハウスは、旅館や民家を間借りして営業していたという。冒頭で喫茶店主の鈴木さんが教えてくれた旅館というのは、清水町にあって、分布図によると、かつてのパンパンハウスだった。
パンパンハウスの数は二百五十軒あって、街角に立つパンパンは千人はいたという。千歳の人々は、好景気に沸いたこの時代のことを部隊の名前をとってオクラホマ景気と呼んだ。
その時代の街の様子はどんなものだったのか。語ってくれたのは、元千歳市市長の梅澤建三さんである。
「当時私は札幌の高校に通っていたんですけど、特に土曜日なんかは、駅から家までの間、ここは日本じゃないんじゃないかというぐらいの賑わいでした。看板も英語だらけで、夕方十七時をすぎたら歩けないんですよ。日本人なんていないですし、朝鮮動乱で千歳に駐留していたオクラホマ州兵ばかりなんですよ」
「高校生には刺激的な光景ですね?」
「そうですね。ビアホールは昼間から開いていて、街は商売人だらけだった印象だね。輪タク(自転車の後ろに客が乗る席を設けた三輪車)も多かったし、九州からわざわざ来ている人もいた。呉服屋さんの話だと、店の前に置いておけば、箒(ほうき)でも何でも日本のものは面白半分に買っていったそうです。賑やかだから、鉄砲で撃たれたり、レイプ事件ももちろんあったりしました」
「個人的に何か、進駐軍とは交流があったんですか?」
「個人で交流ということはなかったけど、オール米軍対オール千歳で千歳小学校のグラウンドで野球の試合をしたことがあったんですよ。その頃、私は野球に打ち込んでいたから自信があったんだけど、千歳川の向こうまでホームランを打たれたことがいい思い出ですよ」
「のちに公人という立場で米軍とも関わられたわけですが、千歳にとって米軍とはどんな存在ですか?」
「治安の悪化という側面があったかもしれないけれど、基地経済に助けられたことも忘れちゃいけないと思いますよ。それによって、教育関係にも予算を使うことができて、いい人材を育て、良質な労働力を提供することができ、結果的に企業の誘致などにつながりました」
米軍基地の問題は、今も日本に暗い影を落としているが、負の側面ばかりではないことも梅澤さんの発言からは伝わってきた。
千歳という街は、日本海軍からはじまり、米軍、そして自衛隊と、軍隊とのつながりによって今日の姿となった。
軍都に生きるということはどんなことなのか、私は千歳に暮らした人々にもっと話を聞いてみたいと思った。
- プロフィール
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八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。