第二話『天命を待つ(萩城)』
矢野 隆Takashi Yano
上座に近い場所にある老齢の重臣が、緊張した面持ちで口を開いた。桂左衛門尉である。桂は、元就公の頃より毛利家に仕える、重臣中の重臣であった。
「学頭に小倉尚斎殿。そしてこの山県周南殿。明倫館は良き学問所となりましょう。明倫館からは、毛利家を支える者たちが多く出ることにござりましょう」
「そは別儀にござりまする」
周南の澄んだ言葉が広間に響く。言葉を吐いた左衛門尉に目だけをむけ、若き学卒は続ける。左衛門尉は不服を吊り上がった眉尻のみに留め、口許に余裕を見せながら周南の言葉を待つ。
「良き師に巡りあうことは、なによりも大事なことにござります。しかし学ぶことと、師を得ることは別儀にござる。和風甘雨のごとく寄り添い、決して強要せぬのが師の務め。学ぶ者は、みずから考え、時に師や同輩たちと語らい合い、己が命を全うするのにござりまする。師が押し付け、それを鵜呑みにし、一言半句違わず覚え込むだけならば、学を極めたとは申せませぬ。毛利家を支える者が現れるならば、それはその者が己の命に気付き、全うせんとした時にござる。私や尚斎殿が作るものではござりませぬ」
「さ、さすが、これから明倫館で教授せんとなされる御方は、口だけは達者なようですな」
左衛門尉のあからさまな皮肉にも、周南は動じない。言葉を返すのも無駄だと言いたげに、毛利家重代の家臣に一礼すると、ふたたび吉元に正対する。
左衛門尉をあしらった周南の態度に怒りを覚えたのか、家臣たちの目に厳しい光が宿った。刺すような視線を一身に受けてもなお、周南は小動もしない。揺るがぬ信念を胸に秘め、主の前に端然と座している。
凍りついた場をいくらか和ませようと、吉元は周南に微笑む。
「みずからの考えで学ばねば、真の学びは得られぬということだな」
黙したまま周南が頭を下げた。
「しかしじゃ、周南。如何にして考えるか、如何に学を修めるか、己が命は何処にあるか。それを諭すのが師の務めではないのか」
「たしかにそれこそが、私の務めであると心得ておりまする」
「御主の命がそこにあるのだな」
「左様」
常から青白い周南の顔が、広間に射す陽光に照らされ、いっそう青白く見えた。
みずからの考えを持って学ぶ。悪くはない。が、それだけでは足りない。吉元が明倫館に通う者たちに求めるのは、学びの姿勢だけではないのだ。
毛利家がいかなる立場に置かれているのか。海と陸の境に立つ牢獄のような城に主を押し込めたのは、何者なのか。毛利に仕える者が持つべき志はそこにある。
周南は、吉元の苦衷を知っている。だからこそこの男の手で、毛利の志を家臣たちに植えつけてもらいたかった。皮肉を吐いて押し黙ってしまった桂左衛門尉のような者どもの子息にこそ、周南の覇気と吉元の苦衷を、志として刻みつけてもらいたいのだ。
「周南よ」
そう言った時、家臣たちのことはいっさい頭になかった。周南と二人きり。吉元の目は、崇高な覇気をまとった男にだけ注がれていた。
「御主が申すことは尤(もっと)もである。が、儂はそれだけでは満足せぬ。解っておろう。儂がなにを求めておるのか」
青白い肌にある細い右の眉がかすかに上がった。
「儂が御主に育んでもらいたいと思うておるのは、毛利の行く末を担う者たちじゃ。そは、気付きだけでは到底辿り着けぬ境地じゃ。解っておろう」
「命は各自の胸にあり、何人にも侵されることのなき物にござりまする」
媚びるようなことは決してしない周南の毅然とした声が、吉元を打つ。黙したまま続きを待つと、周南は真っ直ぐに吉元を見つめたまま言葉を紡いでゆく。
- プロフィール
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矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。