ドン・ロドリゴと首なしお化け
東山彰良Akira Higashiyama
くだけたかっこうのほうが、ぼくの目を覗きこみながら指を一本折り曲げた。「2」
まばたきすらできなかった。
ぼくの視線を不審に思ったのだろう、くだけたかっこうの男が指を二本立てたまま、ちらりとふり返った。
まさに背後に首なしお化けが迫っているというのに、身なりのいいほうは軽く肩をすくめただけだった。
いまや首なしお化けは身なりのいい男の真後ろに立っていて、彼の頭上の雲霞を見上げていた。首がないのに見上げていたというのもおかしな話だけれど、それは愛や悲しみのように、たとえ目に見えなくてもたしかにこの胸が知っていることだった。
くだけたかっこうの男がぼくに向き直り、もう一本指を折って言った。「1」
そんなことはもうどうでもよかった。それどころではない。首なしお化けが、身なりのいい男の頭上の雲霞にひょいとよじのぼった! まるで窓枠を乗り越える泥棒みたいだった。首なしお化けは、よっこらしょという感じで雲霞の縁に片足をかけ、体をひっぱり上げ、そのまま雲霞のなかへ跳び下りて見えなくなった。
「おまえはいいやつだ」くだけたかっこうの男が、ぼくの首筋にナイフをあてがう。「いいやつはみんな早死にする」
ぼくは彼の目がすうっと冷めていくのを見た。いつかテレビで見た、人食い鮫の目みたいだった。
「待て」
その声に彼は動きを止め、肩越しに相棒をふり返った。ぼくのほうは胸が早鐘を打ち、吐き気がこみ上げ、生きた心地がしなかった。
「そいつを殺す必要はない」身なりのいいほうが言った。頭上の雲霞はもう影も形もなかった。「じじいは始末したから、今日はこれでよしとしよう」
くだけたかっこうの男が眉をひそめた。
「まさかここの職員をひとりひとり摑まえて、全員に尋ねるわけにもいくまい? だったら、こいつをひとり殺っても意味がない」
「いいのか?」と、くだけたかっこうの男。「上にはなんと言う?」
「いやな予感がするんだ」
くだけたかっこうの男はじっと相棒を見つめていた。
「うまくいえないけど、こういう予感はおろそかにしないほうがいいと思う」身なりのいいほうが言った。「上はおれがなんとかする。今日はこのまま引き揚げよう」
「おれはべつにいいんだ」ナイフを下ろしながら、くだけたかっこうの男が言った。「人を切り刻むのが三度のメシより好きってわけじゃない」
「行こうぜ、相棒」
「でも、なんなんだ? 今日はおふくろさんの誕生日かなんかか?」
彼らはまるでぼくなどそこにいないかのように、沈む夕陽にむかって坂道を下りていった。
つまり、これがぼくの物語だ。
一枚の写真と、ドン・ロドリゴの幻想と、その幻想から抜け出した首なしお化けが奇妙な具合につながって、ぼくは一命を取り留めた。
もしかすると、ドン・ロドリゴは本当に殺し屋だったのかもしれない。絶命した老人を見て、とりとめなくそんなことを考えた。作家は世を忍ぶ仮の姿。数々の悪事のせいで、彼は首なしお化けに取り憑かれてしまった。その首なしお化けはむかしむかしホテル・ランゴスタで首を斬られた兵士で、なにが悲しいのか、つぎからつぎへと宿主を変えていく。で、首なしお化けに乗り移られた者は、どういうわけか殺生ができなくなるのだ。
たしかに一羽の燕(つばめ)では夏にならず、一度の善行では善人にならずというけれど、遠ざかる殺し屋たちの背中を眺めていると、もしかすると今日は彼らが善人に生まれ変わった記念すべき吉日かもしれないぞと思った。そうだとも。だってドン・ロドリゴによれば、呪いには善いものも悪いものも、そして一見悪くてもけっきょく善いものもあるわけだから。
- プロフィール
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東山彰良(ひがしやま・あきら) 1968年、台湾台北市生れ。9歳の時に家族で福岡県に移住。2003年、「このミステリーがすごい!」大賞銀賞・読者賞受賞の長編を改題した『逃亡作法 TURD ON THE RUN』で、作家としてデビュー。09年『路傍』で大藪春彦賞を、15年『流』で直木賞を、16年『罪の終わり』で中央公論文芸賞を受賞。17年から18年にかけて『僕が殺した人と僕を殺した人』で、織田作之助賞、読売文学賞、渡辺淳一文学賞を受賞する。『イッツ・オンリー・ロックンロール』『女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。』『夜汐』『越境』『小さな場所』『どの口が愛を語るんだ』『DEVIL’S DOOR』など著書多数。訳書に『ブラック・デトロイト』(ドナルド・ゴインズ著)がある。