-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

 誘われるようにベンチを離れた彼女は半透明の箱に近づいた。無人の箱の中、確かに音がしていた。自分の他に気づいている者はいないようだった。辺りを見回してからノマはドアを押し開き、自分を押し込むようにして中に入った。確かに電話は鳴っていた。粒(タブレット)ガムに似た黄緑色の本体が肩に掛けた、、、、、受話器を早く取れと急かしているようだった。中には先程の女の残り香がまだある。
 誰も箱に駆け寄って来ないと確認してからノマは受話器を取った。
「……はい」
 相手の言葉が最初はわからなかった。外国語のようでもあり、チューニングの合っていないラジオ放送のようにも聞こえたからだ。
 ノマは面食らいながらも、もう一度「もしもし」と云った。
『番号を……』
 相手はそう云ったきり黙った。
 切れたのではないかと思ったが、そうではないことが背景の音からわかる。夜想曲(ノクターン)のような古めかしいが、どこか懐かしい音楽が流れていた。
 番号……番号……予期せぬ問いにノマは慌てたが、硬貨投入口の上に載せられた紙切れを開くと確かに番号らしき数字が並んでいた。ノマはそれを読み上げた。
「いちきゅうよんごうよんさんまる」
 相手は沈黙を続けていた。しかし、それはノマが答えを間違ったことを意味していなかった。間違いならば、即座に何の話だと云い返されただろう。
 ノマが三度、固唾を呑(の)んで待った頃、相手の声がした。
『それでは面接をします。ホテルで働いた経験は?』
─なかった。
「あります」
『こちらは大変に格式を重んじる会員制のホテルです。給与、また福利厚生の面に関しても諸外国の大使館に劣るものではありませんよ』
 その時点で初めてノマは相手が年配の女性だとわかった。
「承知しています」
『その権利を受けるだけの働きが求められるのです』
「はい」
 ノマがそう告げると相手は彼女の氏名、連絡先を確認し、ある住所と日時を告げた。
 電話を終えたノマは箱から出た。胸がドキドキした。自分が嘘(うそ)を吐(つ)き、それが思わぬ効果を発揮してしまったことへの昂揚(こうよう)と不安がないまぜになっていた。
「やるしかない……これしかないもの……」
 楔(くさび)のように打ち込まれた相手の言葉から既に逃れられなくなっている自分を感じた
─外国の大使館に劣らぬ待遇─彼女と彼女の息子に最も必要で絶対に逃してはならない宝くじ(チャンス)。駄目なら素直に謝ってしまおう。彼女は何度も自分に云い聴かせた。
 漸(ようやく)くアパートへ戻る決心が付いた頃、ノマは相手が告げた言葉を口にした。
「……オテル・ドゥ・エスカルゴ」

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。