蝸牛ホテル─hôtel de escargot
平山夢明Yumeaki hirayama
指定された日はあの公衆電話での嘘から三日後だった。その間、ノマは受け取るはずだった賃金の支払いがどうにかされるよう必死で動いた。かけたこともない相手に電話し、相談し、助言や助力を求め、方策を尋ね、云われるがままに相手先にも出向いた。アパートの大家にも掛け合い、胃が潰れるような嫌味を云われても微笑(ほほえ)みを崩さぬよう、爪先に力を込めてそれを受け止めた。退去期限はひと月だけ延びた。しかし、ただそれだけのことでしかなかった。コウはお腹(なか)が減ったとは云わなかった。ノマが外出している間は横になって腹が減らぬようにしていた。深夜、ノマはへとへとになった躯(からだ)を落ち着かせようと珈琲(コーヒー)を作った。瓶の粉ミルクが大きく減っていた。コウが掬(すく)って空腹を紛らわせたのだとわかった。
面接当日、ノマは自分で背中まで伸びていた髪を肩までに切った。コウに今日は良い事があるって神様に祈っていてねと云うと、彼は彼女に向かい手を合わせ、笑った。それだけで母の覚悟は決まった。
- プロフィール
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。