蝸牛ホテル─hôtel de escargot
平山夢明Yumeaki hirayama
「我々はコウ君を殺すことはできなかった。それをすれば元の木阿弥(もくあみ)になってしまうからね。あくまでもコウ君は母親に殺されなければならなかったんだ!」
「げぇ」ノマはコウの首を掴んだまま床に仰向けに倒れた。
……何も見たくない……何も聴きたくない……もう生きていたくない……。
ぼける視界の中、ルシーフが見下ろして云った─。
「あなたが望むのならすっかり平和になった世界へ同行する事も可能よ。こちらでの惨めな生活に比べれば、天国のような暮らしが期待できるわ」
「ノマ。たったひとりのちっぽけな命より百億人の愛を受け取り給え。私と一緒に行こう」
ウルマが笑った。
「そうよ。あなたは人類を戦争という災禍から救ったの。ダムの大崩壊を息子の命と引き換えにして。誇って良いのよ。世界の母だもの。羨ましいわ」ルシーフが微笑んだ。
「もう傷を癒やしたのなら、向こうに飽きたら。また此所に戻ってコウ君との生活を交互に楽しめば良い。最も彼はこれ以上年は取れないが」
ウルマの言葉に周囲から笑い声が起きた。
腕に抱いたコウの目から涙が零れていた。口にはテープで塞がれた痕が残っている。
「つまりはループってことね」
「螺旋と云った方が正しいね。
蝸牛
だよ、ノマ」
その言葉をウルマが云い終わらないうちにノマは傍らにあった手斧を掴むと跳ね起き、その脳天を打ち砕き、返す刀でルシーフの首を切断し、飛びかかってくる男達の腹を胸を顔を叩き砕き、逃げ惑う女達の背を割り、サリの臓物を吐き出させた。
気がつくと室内で生きているのは自分だけだった。
手斧を捨てるとノマは改めてぬいぐるみを見下ろした。その爪には小型のナイフが幾つも取り付けられ、ノマの血で汚れているのがわかった。
ノマはコウの胴体をベッドに運ぶと首を置き、外れないように包帯で縛った。
それから手を洗うと部屋を出た。
いつもの光景が広がっていて、室内の惨劇に気づいた者はいないようだった。
ノマは呆然と歩いた。
escargot
我に返ると公園のベンチにいた。
緑の絵の具をずっと先まで拡げたような鮮やかな芝生と、その上に絵筆を濯いだ残り水にも似た濁った空がのしかかっていた。左に公園の駐車場。
─今では珍しいボックス型の公衆電話があり、誰かが使っていた。
- プロフィール
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。