-短編ホテル-「錦上ホテル」

錦上ホテル

大沢在昌Arimasa Oosawa

「私はずっと悩んでいました」
 上野が口を開いた。
「栗橋さんに隠れていればいいといったのは正しかったのか、と。あのときは無理強(むりじ)いできるような状態ではなかったかもしれませんが、落ちついたらまた筆をとるよう、強く迫るべきではなかったか。私の早まった一存が、栗橋冬一郎という才能を埋もれさせてしまったのではないだろうか」
「そんなことは決してありません」
 栗橋がいった。皆が再び沈黙した。
「大切なことはひとつだよ」
 不意に仇坂さんがいった。
「今、栗橋さんが幸せかどうか、だ」
「幸せです」
 即座に栗橋がいった。
「三年前、家内が病を得て歩けない体になりました。以来、ここの経営にも携ってきました。それはそれで充実した日々でした」
「閉館を決めたのは栗橋さんですか」
 私が訊ねると、
「いえ、わたしです」
 婦人が答えた。
「錦上ホテルの役割は終わったと思ったんです。あとは皆様の心に錦上ホテルの思い出が残ればいい。ただ、それにあたっては主人のことをきちんとお話ししなければならない、と思っておりました」
 ふうっと伊多々田氏が息を吐いた。
「ここでやってよかったな。上野さんにやられたような気もするが」
「拍手だ」
 私はいった。満場が拍手に包まれた。

プロフィール

大沢在昌(おおさわ・ありまさ) 1956年、名古屋生まれ。79年、『感傷の街角』で第1回小説推理新人賞、91年『新宿鮫』で第12回吉川英治文学新人賞、第44回日本推理作家協会賞、93年『新宿鮫 無間人形』で第110回直木賞、2004年『パンドラ・アイランド』で第17回柴田錬三郎小、10年第14回日本ミステリ文学大賞、14年『海と月の迷路』で第48回吉川英治文学賞を受賞。著書に『毒猿』『絆回廊』など新宿鮫シリーズのほか、『欧亜純白』『烙印の森』『漂砂の塔』『悪魔には悪魔を』など多数。