聖夜に
下村敦史Atsushi Shimomura
3
2008年12月25日午後7時10分
マリカは女性トイレから出ると、深呼吸した。人目から解放された数分間で少し気持ちが落ち着いた。
エントランスホールへ向かう。
フロントでは三人の客が列を作っていた。まだ話しかける覚悟が決まらなかった。
マリカはL字形のソファが設(しつら)えられたエントランスラウンジへ行き、空いているところに腰を下ろした。吹き抜けの天井を見上げ、息を吐く。
フィリピンの売春宿から──そして、カツベから逃げる決意をさせてくれたのはノリだった。
ノリと出会わなければ、はるばる日本まで来ることはなかっただろう。世界の国々の中では比較的近いとはいえ、フィリピンの貧困地域で生きてきた女に日本は遠すぎる異国だった。
ノリの誠実さを信じたからこそ──。
マリカは彼を想(おも)った。
カツベに命じられて売春宿で体を売り続ける日々の中、ノリは客としてやって来た。
彼は中肉中背で、シャツの上からでも腹の脂肪が盛り上がっているのが分かった。顔立ちは平凡で、常に伏し目がちだ。カツベとは何もかも対照的で、冴(さ)えない外見の中年男性──。
カツベとの同棲(どうせい)生活で日本語は覚えていた。日本人の客とはある程度のコミュニケーションがとれる。そういう理由もあり、日本人の客をあてがわれることが多かった。
「実はこういう場所に来るのは初めてなんです」
「ソウナンデスカ」
「日本にもこういうお店はあるんですけど、抵抗があって、利用したことはありません。でも、異国のお店ならその場かぎりで、後腐れもないし、平気かな、って思ったんですけど──。実際に顔を合わせてみると、やっぱり緊張します」
マリカはうなずいた。
うぶを装う客はしばしばいたが、彼は演技ではなく、本当に不慣れなようだった。
「あのう……どうしてもしなきゃ駄目ですか?」
店は先払いなので、すでに代金は支払われているはずだった。歩合制だから取り分が減るわけでもない。
マリカはかぶりを振った。
「そうですか……」日本人は眉を垂れさせるようにして、安堵(あんど)の表情を浮かべた。「良かったです」
むしろ、行為をしなくてすむならありがたい。前の客が乱暴で、体がぼろきれになったように感じている。
しばらく沈黙が続いたとき、日本人がおずおずと口を開いた。
「少し話をしてもいいですか……?」
「ハイ」
「僕のことは、ノリ、って呼んでくれたら嬉しいです」
「ノリサン」
「ノリでいいですよ」
「……ノリ」
ノリがはにかんだ。
「ありがとう。嬉しいです」
「ワタシ、マリカデス」
「マリカさん。いい名前ですね」
「アリガトウ、ゴザイマス」
- プロフィール
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下村敦史(しもむら・あつし) 1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の著書に『生還者』『失踪者』『告白の余白』『黙過』『刑事の慟哭』『絶声』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』など多数 。