-短編ホテル-「聖夜に」

聖夜に

下村敦史Atsushi Shimomura

 ノリは突っ立ったままだった。
 マリカはベッドを指し示し、「ドウゾ」と言った。「スワッテクダサイ」
「あ、はい……」
 ノリは当惑気味にうなずき、ベッドの縁に腰を下ろした。所在なさげに部屋の中を見回している。ところどころ塗装が剥げた壁、靴の汚れで変色した絨毯(じゅうたん)──。
 部屋にあるのは簡素な木製ベッドとサイドテーブルだけ。
「あ、マリカさんも座ってください」
 ノリに促され、マリカは彼の隣に腰掛けた。彼が尻の位置を少しずらし、距離を取った。
 また沈黙が降りてきた。
「アノ……」
 沈黙に耐えきれなくなり、マリカは口を開いた。だが、何を話せばいいか分からない。約二年間、ただただ客たちと行為に及ぶだけで、普通の・・・会話はほとんどしてこなかった。
 そんな内心を読み取ったのか、ノリのほうから話しかけてきた。しかし、その声は弱々しかった。
「ごめんなさい、オジサンで──」
 ノリは四十代半ばだろうか。あるいはもう少し年上か。心の底から申しわけなさそうな顔をしていた。
「……ゼンゼン、ヘイキデスヨ」
 ノリは顔を上げた。
「ありがとう。マリカさんは優しいですね」
 優しい──?
 そんなふうに言われて戸惑った。客は年配の男性が多いし、彼くらいの年齢の客は珍しくなかった。五十代、六十代の客も頻繁に相手にしている。
 だが、そういう事実を口にするのははばかられた。こんな自分を優しいと言ってくれたことを間違いだと思われたくなかった。
「アリガトウ、ゴザイマス」
 ほほ笑みを返しながらお礼を言うと、ノリはなぜか嬉しそうに笑った。
 褒め言葉が通じて喜んでいるのだと思い至るまで、ほんの少し間が必要だった。
「僕は日本でトラックの運転手をしています。日本全国を回っているんです」
「トラック──デスカ」
「はい。一日じゅう運転しているから、人に会って話をしたりすることがないんです。荷物を受け取って、積み込んで、運転するだけ──。アパートに帰っても一人で、コンビニで買ったお弁当やおにぎりを食べて、適当にテレビを流して、お風呂に入って、寝る毎日です」
 ノリは孤独に打ちひしがれた表情で床を睨(にら)みつけている。
「マジメニガンバテルヒト、ナンデスネ」
 彼が「え?」と驚いた顔をマリカに向けた。
「シゴト、ガンバテルヒト。ソウオモイマス」
「……ありがとう。少し元気づけられました」
 ノリは規定の時間、ただ話し続けた。言葉を交わせる相手がいるだけで人生に救いが生まれたかのように──。

プロフィール

下村敦史(しもむら・あつし) 1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の著書に『生還者』『失踪者』『告白の余白』『黙過』『刑事の慟哭』『絶声』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』など多数 。