聖夜に
下村敦史Atsushi Shimomura
そもそも、ノリは孤独を抱えて異国のこんな店にやって来たのだ。最後まで何も癒してあげられなかった。初めて客を一人の人間として見ていることに気づいた。それは相手が同じように自分を人間として見てくれていたからかもしれない。
ノリは表情を隠すように背を向けた。
「パアラム」
ノリはタガログ語で別れの挨拶をつぶやいた。堅苦しく、現地人はあまり使わないが、その分、丁寧さが感じられて、その心遣いが胸に染み入った。
ノリは黙ってサイドテーブルに紙幣を置き、ドアを開けた。部屋の外に出ると、そこで振り返り、泣き崩れそうな感情を抑え込んだ顔で言った。
「頑張れ、マリカ、頑張れ……」
ぐと胸が詰まった。
ノリの言葉には切実な感情が滲(にじ)み出ていた。自分自身が苦しみを抱えているにもかかわらず、応援してくれた。そこには思いやりがあった。
自分は何もしてあげられなかったのに──。
ノリが去っていった。
その日は二人の客の相手をした。女を乱暴に扱うアジア人だった。会話などはなく、ただ欲望を吐き出すだけ──。
一日が終わり、賃金を受け取って売春宿を出ようとしたときだ。経営者の中国人妻から「預かってるものがあるよ」と手紙を差し出された。
マリカは首を傾げながら手紙を受け取り、開封した。見慣れない文字が──おそらく日本語が書かれていた。
何て書いてあるのだろう。日本語を聞き取ってある程度は話せるが、読み書きはできなかった。
困りながら店を出たとき、ふと思い出し、TAKOYAKI≠フ屋台に向かった。
日本人の彼なら──。
マリカはおじさんに事情を話し、手紙を差し出した。彼は快く内容を読んでくれた。片言のタガログ語で言う。
「……僕は日本に帰国しますが、マリカを愛している気持ちは本物です。クリスマスに『ヴィクトリアン・ホテル』に部屋を予約しています。プロポーズは本気です。部屋に残したお金は飛行機のチケット代ですが、迷惑だったらあれで美味しい物でも食べてください。堀之内忠則(ほりのうちただのり)=v
そこで初めて彼の本名を知った。
ノリ──。
マリカは後日、売春宿の仲間の女性に相談したものの、逃げるのは好ましくない、と反対されただけだった。
だが──。
最後まで迷ったすえ、思い切って決断した。
マリカは『ヴィクトリアン・ホテル』内を見回すと、大きな柱に背中を預け、息を吐いた。
ノリの手紙を信じ、思い切って日本までやって来た。先進国の日本で働けたら、真っ当な仕事で家族への仕送りも──。
人生に希望の灯火(ともしび)が灯(とも)ったような気がした。
- プロフィール
-
下村敦史(しもむら・あつし) 1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の著書に『生還者』『失踪者』『告白の余白』『黙過』『刑事の慟哭』『絶声』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』など多数 。