-短編ホテル-「聖夜に」

聖夜に

下村敦史Atsushi Shimomura



2008年12月25日午後7時30分
 勝部は目を細め、『ヴィクトリアン・ホテル』内に視線を走らせた。睨みつけるような眼差(まなざ)しになっていたらしく、目が合った中年夫婦が嫌悪の顔つきでさっさと去っていった。
 苛立(いらだ)ちが込み上げ、勝部は舌打ちした。
 マリカが無断で仕事・・を休んだと知ったのは、昨日の夕方だった。経営者の中国人夫婦と話したとき、マリカが日本の『ヴィクトリアン・ホテル』で男と逢引(あいびき)するつもりだ、と教えられた。マリカから話を聞いた売春婦が中国人経営者に密告し、知るところになったのだ。
 従順だったマリカの突然の裏切りに腸(はらわた)が煮えくり返る。
 日本での売春斡旋の罪が時効になっていることに思い至り、日本行きを決めた。
 売春婦仲間の話を聞くかぎり、マリカが日本人客にたぶらかされて日本へ逃げたことは間違いなかった。腕を引っ掴んでフィリピンへ連れ戻してやる──。
 そのためには、マリカを見つけなければ何もはじまらない。もうすでに男と部屋にしけこんでいるなら、どうやって見つければいいのか。
 だが──。
 勝部は出入り口のガラスドアに目を向けた。
 もしマリカがまだ『ヴィクトリアン・ホテル』に着いていなかったとしたら──?
 二人が出会うことを妨害する手段があるかもしれない。
 勝部は緊張を感じたまま、フロントに歩み寄った。顎鬚(あごひげ)を撫(な)でながら黒髪の女性に話しかける。
「予約している堀之内ですけど──」
「ホリノウチ様ですか。少々お待ちください」フロント係の女性はパソコンを打ち、顔を上げた。「ご予約いただいています。本日よりご一泊ですね」
「そうなんですが、実は急用ができまして──。キャンセルしたいんです」

プロフィール

下村敦史(しもむら・あつし) 1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の著書に『生還者』『失踪者』『告白の余白』『黙過』『刑事の慟哭』『絶声』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』など多数 。