聖夜に
下村敦史Atsushi Shimomura
彼を信じ、はるばる日本へ来た。着の身着のままで、カツベの支配から逃れてきた。今ごろカツベは激怒しているだろう。殺してやる、と息巻いているかもしれない。
今さらフィリピンへは戻れない。
ノリの言葉を信じたからこそ、私は──。
フロント係の男性が気の毒そうな顔を見せていた。言いにくそうに口を開く。
「もう一度ご確認いたしましたが、ホリノウチ様のお名前はありません。宿泊予約をされていません」
なぜ──。
衝撃に打ちのめされ、疑問符が頭の中に渦巻いた。息苦しさを覚える。
ノリは嘘(うそ)をついたのだろうか。豪華なホテルに誘ってくれたのは社交辞令だった──。
いや、そのときはもちろん本気だったのかもしれない。ノリの誠実な文面に嘘があったとは思えない。だが、日本に帰国して冷静になってみると、異国の雰囲気にたぶらかされて気の迷いで書いてしまった、と気づいたのだ。
だから、忘れることにした──。
どうせ、相手も本気でフィリピンから日本へはやって来ないだろう、と思い込んで。
しかし、自分はノリの言葉を信じ、日本へやって来た。彼の想いに応えるために──。
涙が込み上げてくる。
これはノリの裏切りでも、嘘でもない。たしかに本気だったが、冷めた。たったそれだけのことなのだ。
売春宿で働いているとき、大勢にモノ同然に扱われた。人間として接してくれたのはノリだけだった。彼は優しかった。だから──。
マリカは涙をこらえた。
「アリガトウ、ゴザイマス」
マリカはフロント係の男性に礼を言うと、踵(きびす)を返した。とぼとぼとその場を離れる。
ノリを恨むのは筋違いだ。
フィリピンへ戻ろう。自分の居場所はあの宿しかないのだ。心も体も擦り切れるまで、ひたすら身を売り続けるのだ。
──頑張れ、マリカ、頑張れ……。
別れ際のノリの励ましが脳裏に蘇(よみがえ)る。あのときの彼は本気で救いたいと思ってくれていた。彼の最後の言葉を拠(よ)り所(どころ)にして、生きていこう。
カツベには殴り殺されるかもしれない。それなら、それでもう仕方がない。
諦念に打ちのめされた。
- プロフィール
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下村敦史(しもむら・あつし) 1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の著書に『生還者』『失踪者』『告白の余白』『黙過』『刑事の慟哭』『絶声』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』など多数 。