聖夜に
下村敦史Atsushi Shimomura
7
2008年12月25日午後8時50分
時が凍りついたような間があった。
それはホテルマンとしては常識で、今の今までその可能性に思い至らなかった。『ヴィクトリアン・ホテル』を初めて利用するお客様なら、詳しくなくても当然かもしれない。
「二つっていうのは──」
中年男性が緊張の絡んだ声で訊いた。
「『ヴィクトリアン・ホテル』は東京と大阪にございます」
もちろん、全く同じではなく、階数も九階と七階という違いがあるし、階段の形状や、内装や調度品のテイストも異なっている。
「系列のホテルが北海道や東京、大阪などの主要都市にある有名ホテルは数多いです。『ヴィクトリアン・ホテル大阪』の場合は一九七二年に建設され、来年──二〇〇九年の春をもって閉館することが決定しております」
「では、マリカは大阪のホテルを訪ねたかもしれないと──?」
「たとえば、同じ名前のホテルが池袋と新宿にあるケースだと、予約の際、うっかり間違われてしまうお客様がしばしばいらっしゃると聞きます。外国人のお客様だと、東京の『ヴィクトリアン・ホテル』と大阪の『ヴィクトリアン・ホテル』を間違われることも、ないとは言い切れません」
中年男性が目を剥(む)いた。
「確認することは──確認はできませんか。もしそうだったら、マリカは僕の予約がなくて、裏切られたと誤解しているかもしれません」
岡野は決然とうなずいた。
「少々お待ちください」
岡野は中年男性の名前──堀之内忠則──を聞いてからフロントへ向かった。カウンターの裏側にある控室に入ると、受話器を取り上げ、『ヴィクトリアン・ホテル大阪』に電話した。旧知のベルマン、玉越(たまこし)に取り次いでもらう。
「もしもし」
「どうしたんですか、勤務中に電話なんて。いきなりでびっくりしましたわ」
快活なイントネーションの関西弁が応じた。玉越は生まれも育ちも大阪だ。親しみやすい口調が懐かしい。
「取り込み中でした?」
「いや、今は比較的落ち着いてますわ」
「実はこっちと間違われたお客様がいるかもしれません」
「お名前は分かります?」
「フィリピンから来られたマリカさんです」
- プロフィール
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下村敦史(しもむら・あつし) 1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の著書に『生還者』『失踪者』『告白の余白』『黙過』『刑事の慟哭』『絶声』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』など多数 。