グレート・ナンバーズ
真藤順丈Junjou Shindou
〈王子〉
ガーデンビューラウンジのVIPルームを出たところで、一人のフロント係が目に止まった。黒い髪を完璧なシニヨンに結わき、磨きあげた黒い花崗岩(かこうがん)の向こうでショートケーキのように白い頰を柔らかくふくらませている。
この国の娘たちはとてもキュートだ。チェックインは侍従(じじゅう)がすませていたが、王子はゆったりと優雅にフロントに歩み寄った。もどかしくて途中からは走った。フロント係の女もこちらに気がついて、珍しいものを見たように目を見開いた。なにしろ重量のある腿(もも)だからね、膝の上でゆっさゆっさと肉が揺れる。王子の体には、三十年ぶんの
珍味佳肴に由来する脂肪がたっぷりついている。象のような巨漢が走ったりしてフロ
ントと衝突する惨事にならないか、かわいいフロント係は心配しているにちがいなか
った。
私は国賓だからね、しかしナーバスにならなくてもいいんだよ。王子は向かい合って頰笑み、娘の目を見つめて確信する。この手のことで王子の勘が外れることはめったにない。誘いさえすれば、このフロント係が仕事明けに通用口から帰らずにエレベーターで客室最上階まで上がって、王子の泊まっているスイートルームの扉をノックするだろう。王子は部屋に通した彼女のファスナーを下ろし、ブラウスを脱がし、透きとおるような喉からおへそにかけて口づけを往復させるだろう。事を終えた二人は、天蓋つきのベッドに身を横たえて、王子は女の乳首のまわりに指先で柔らかく輪を描くのだ。心理障壁を越えやすいように、弾みをつけられるようにいくらか小遣いを渡してやる必要はあるかもしれないが、これらの夢想を現実のものとするために王子が言わなくてはならない科白(せりふ)はひとつしかなかった。
「ねえ、君、私の部屋に来なさい」
ただそれだけ。たとえ相手に夫や恋人がいても、そのことで王子が罪悪感をおぼえたためしはない。パートナーを置き去りにしてスイートへ昇ることをためらったとしても彼女たちはそんな後ろ向きな感情はすぐに乗り越えてしまう。なぜなら私は王子だからね。女たちはだれもが王子のスイートに招かれるわけではないことを少女のころから本能で知っているのだ。
うむー、誘おうかな。王子は悩んだ。悩みながらフロントの真横の大きな鏡面に移る自身に目を向けて、うっかり見惚(みと)れた。鏡を見るのはアステカ帝国のピラミッドのように壮麗な自分の体を愛(め)でる儀式だった。ひとつかみの脂肪は、下々の者たちが味わえない贅沢(ぜいたく)な食事の思い出。体重の一ポンド一ポンドが、歓喜と恍惚によって獲得されたこの体の財産であり、女たちの情欲をかきたてるエロティックなむちむち感に多大な功績を果たしているのだ。
王子の目には、フロント係の女の子はその科白を待っているように見える。
ああ、しかし、しかし─
「あたしのピラミッドちゃん、今夜は何をされたいの?」
脳裏には別の女の声がこだまする。やはり今日にかぎっては自重しなくては。なんのためにお忍びで来日したのかわからなくなる。明日の朝、その女はやってくる。それまで精力の濫費は許されない。最後の血と精液の一滴まで気高い娼婦に捧げるのだ。
湧きあがる衝動に打ち克った王子は、このホテルのサービスに満足しているよ、とだけ彼女に伝えて、そのまま振り返らずにエレベーターホールへと向かった。キュートなフロント係よ、許してくれたまえ。
私は、万全の備えをしなくてはならないのだ。
明日の夜、世界最高の娼婦が、フレイヤが訪ねてくる。
美しいその肢体に、かつてない豊饒(ほうじょう)な曲線を宿らせて。
- プロフィール
-
真藤順丈(しんどう・じゅんじょう) 1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で、第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。18年から19年にかけて『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。著書に『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』『しるしなきもの』『黄昏旅団』『夜の淵をひと廻り』『われらの世紀 真藤順丈作品集』など。