-短編ホテル-「グレート・ナンバーズ」

グレート・ナンバーズ

真藤順丈Junjou Shindou

 報告をすませて退(さ)がると、景山はその足で細民街へと向かった。廃墟(はいきょ)も同然のあばら屋が建ちならび、浮浪者と野良犬と、食料配送サービスの自転車が往き交っている。赤んぼうに出の悪い母乳をやる女が黒ずんだ乳輪を隠そうとせずに地べたに座りこみ、炊きだしの列に並ぶ人々は慎みをかなぐり棄(す)てて、お菜(かず)や汁物をこっちによこせ早くよこせとわれがちに叫んでいた。
 雲の高みにまでそびえるタワーホテルと、這うような貧民窟の暮らし。振り子のようにそのはざまを景山は移ろった。二つの世の間を〈世間〉と呼ぶのなら、数世代は退行してしまったような、あるいは文明の涯(はて)にたどり着いたようなこの国で、あらゆる人々は変転するこの世界をどこへ流れていくべきか、どのように生きるべきかを見定めようとしているのかもしれない。
 緊急災害用のテントとトタン葺(ぶ)きの小屋が集まる一画で、垂れ幕ごしに「私だ」と声をかけた。景山を迎えたのは、数年前に仕事の世話をした窃盗団の一味だ。報酬次第で誘拐でも暗殺でも引き請けるプロフェッショナル。景山はある意味で、みずからのホテルで働くポーターやアッシャーよりもこの男たちに信頼を置いていた。
「身軽な男が一人、必要になりそうでな」
 あらましを話すと、それならキドーを連れてってくださいと男たちは言った。焚き火の向こうの夕闇が躍った。ほら、あそこにいますと言われたが、景山の目線の位置は低すぎた。もっと上だ。あばら屋の屋根を踏み、ポール・ド・ブラで持ち上げられたバレリーナのようにくるくると電柱を回りながら下りてきたのは、鋼(はがね)をよりあわせたように引き締まった上半身を、魚、星、王冠、ゲルニカの一部、ボリス・カーロフのフランケンシュタインなどの刺青(タトゥー)で埋めた男だった。何をしてきたのか、双刃(もろは)のナイフを手にしていて、あごの下にまで返り血が散っていた。
「そういう仕事ならキドーが一番です。こいつなら景山さんのお役に立てます」
 身のこなしは常人離れしているし、ためらわずに死肉に口吻(こうふん)を挿(い)れる獣のような、情性欠如の瞳も好ましかった。
 連れて戻りながらキドーにも説いた。夜の仕事をするために、敵地と知らずに乗りこんでくる女に葬り去ること。そもそも神殿娼婦≠ネどと称する種類の女は、放置しておくと今よりずっと恐ろしいことになる─
 鋭い牙も体毛もない我らの先祖が洞穴で暮らしていたころ、女たちは支配力を有していた。我らは父なる神ではなく地母神に仕えていた。しかし命の輝きとは母胎の神秘のみに由来するものではない。男たちはかくして叛旗(はんき)をひるがえし、政治や社会性によって、知恵や腕力によって高い塔を上りつめ、しかるのちにこの世を支配した。言うまでもなく塔とは男性優位の世の象徴であり、この世の争いのすべてに共通するのは、上昇を志向する勢力と、大地にとどまろうとする勢力の戦いなのだ。世界のいたるところに崇高な塔が築かれ、その儀式性を保つ我らがいたからこそ、父から子へと王座が継がれて現在に至っている。理性、論理、科学、芸術、そして未来。すべてを今一度、重力のくびきから解放して我らの手元に引き寄せるのだ。すべてが飽和し、退行していくこの時代にあって、神なるものが存在するのは我らの塔の内部であり、人間の偉大さはすべてそこに内在している。高邁(こうまい)な精神の高みにまで上りつめられる知性、すべての問題を解決に導ける者こそが真に魔術師(コンシェルジュ)と呼ばれるべきなのだ。
「実際、バロンの命令に応えるのは氷山の一角。私たちが従うべきは、深層に隠れている大いなる天命のほうだ。重要なのは精神の格闘だ。国境も世紀もまたいで飛びかう思考の火花だ。お前には難しい話かもしれないが……」
「はあ、景山さんがやべえ人だってのはわかりました」無口なキドーがそこで口を開いた。「ようするに旦那はその女が、なんなら世間の女どもみんなが憎くて、殺したくてたまらないんですね」

プロフィール

真藤順丈(しんどう・じゅんじょう) 1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で、第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。18年から19年にかけて『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。著書に『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』『しるしなきもの』『黄昏旅団』『夜の淵をひと廻り』『われらの世紀 真藤順丈作品集』など。