グレート・ナンバーズ
真藤順丈Junjou Shindou
〈アッシャー〉
あくる日、森は夜間のシフトだった。
オーディトリウムでは歌劇のコンサートが催され、客足は盛況そのもの。車寄せに停まる高級車から降りたつスーツや燕尾服、イブニングガウンで着飾った紳士淑女がこぞって訪れ、廻転ドアはくるくる廻りつづけて片時も静止しなかった。
舞台上ではあでやかな衣裳(いしょう)をまとったカウンターテノールの歌手が、去勢歌手(カストラート)のような天上の声を響かせているはずだが、高くのびやかな裏声(ファルセット)もロビーやエントランスにいる森たちまでは聞こえてこない。夜の九時をすぎたころ、あきらかにオペラの客ではないとわかるのに、誰よりも目を引くラグジュアリーな身なりの女がエントランスに現われた。おお、ひさびさに〈神殿娼婦〉のご出勤か、と先輩たちが色めきたった。
あれが、フレイヤ。
ウルトラ・エクスペンシヴな〈神殿娼婦〉─
控室の噂では聞いていたけど、森が実物を拝むのは初めてだった。
燃えたつような赤に染色した髪、細くて長い首に、ちいさな顔が載っている。フラミンゴのように尻が高い位置にあって、そこから伸びる太腿はアスリートのように引き締まり、紫のアンクレットで飾った足首に向けてすぼまっている。
猫のような目と、薄いながらひんやりと整った目鼻が、硝子細工のように脆そうな気配に拍車をかけていた。シルクのローブのような上衣と、ラメを散らしたインナーをまとっていても、森にはこれまで見た誰より美しい体をしているのがわかった。屋外ではにわか雨が降ったようだが、彼女の体から雨滴すらも離れたがらず、肌の上で名残を惜しむ真珠のように丸まっていた。何よりも目を引くのはインナーの真下でふっくらと盛りあがるお腹だった。噂の娼婦はどうやら妊娠しているようだった。
「え、冗談ですよね。彼女がコールガールだなんて」
「噓じゃねえ、うちに出勤してくるのは半年以上ぶりかな」
「だって出勤って、お腹に赤ちゃんいないすか?」
「おおかた臨月でもウェルカムな常連セレブが泊まってんだろ」
フレイヤの素性については諸説あるが、貧民街出身の苦労人なのは間違いないらしい。バックパッカーとして世界中の売春街や娼窟をめぐって実地に学んだとも、同性の恋人とおなじ性感染症にかかったが一人だけ生き延びたとも、ホームヘルパー二級の資格を持っていて昼間は要介護老人の食事の介助やオムツ交換に明け暮れているともされるが、真偽はいずれもさだかではない。顔なじみのホテルスタッフがしばしば聞かされる本人の話も、語られるたびにいつも違っていて、真実から遠ざけるためのフレイヤ一流の煙幕にすぎないとも言われている。フレイヤについて知りたい者は、資産家のご令息の身代金にもなりそうな金額をはらってピロートークに賭けるか、さもなくばそれぞれが信じたいことを信じるしかないという。顧客の要望によってトロフィー・ワイフにも清純な乙女にもなれる娼婦、森が本人の姿をその目で見て感じたのは、恵まれた条件で宿ったわけではないお腹の子の祝福を探して、すすんで戦端を拓くようにロビーを闊歩していく女闘士のイメージだった。
「お、おれ、あの人にお願いしたいです」
「ああ? 何がだよ」
「例のキスの」
「寝言かそれは。あの女(ひと)には見るだけで角膜が飛びだすような値札がついてんだぞ。キスだけでも数年分の給料が吹っ飛ぶ。というかうかつに近づこうものなら、周りの黒服たちに袋叩(ふくろだた)きにされる」
身にまとっているのは霊気ばかりではない、栄養過多で大きくなりすぎたような屈強なボディガードを十人ほど連れていて、連中はこの世で最も貴重なサファイアでも運んでいるかのような厳重な警戒ぶりだった。あれで本当に娼婦なのか、命を狙われている王族の娘じゃなくて? 護衛を雇う金があるのにセックス・ワーカーをつづける必要があるのか、お腹の子の父親は何者なのか─
フロントに立ち寄ることなくエレベーターホールに直行するフレイヤの背中から、森は目を離すことができなかった。混雑した客のはざまを身軽な魚のように泳ぎまわっていたコンシェルジュとすれちがい、二言三言しゃべってから、すぐに上層階直通エレベーターのスイッチを押す。あの景山コンシェルジュですら、丁寧に接遇しようとして袖にされたような気配があった。
瓶子も貞尾も、誰もがエレベーターの扉が閉じるまで視線を奪われていたし、おなじみの「天罰!」といった叫びもなかったので、アッシャーたちは天敵のカート・レディの侵入を許してしまったことに気がつけなかった。
- プロフィール
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真藤順丈(しんどう・じゅんじょう) 1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で、第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。18年から19年にかけて『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。著書に『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』『しるしなきもの』『黄昏旅団』『夜の淵をひと廻り』『われらの世紀 真藤順丈作品集』など。