-短編ホテル-「グレート・ナンバーズ」

グレート・ナンバーズ

真藤順丈Junjou Shindou

A グレート・ナンバーズ

〈姉弟〉

「で、なんの病気なんだ。あいつが死にかかってるっていうのは」
「癌(がん)」
「だからサインして、お願い。それだけが母さんの望みなんだから」
 午後の遅い時間にロビーを通りかかった父親を、姉弟は見逃さなかった。ポン引きのようなサテン地のスーツに、白髪染めを使ってめいっぱい若作りしていたけど、それでもひと目でわかった。年老いた父は充血した目を潤ませていて、昼間から酒を飲んでいるのがわかった。泊まっている部屋に招こうとはせず、スカイ・ラウンジへと姉弟を連れていき、ウィスキーのオン・ザ・ロックを注文した。
「母さんが、お前たちを差し向けるとはな」父は苦々しい表情で言った。
「差し向けられたわけじゃない、自分たちで来た」姉は即座に言いかえす。
「どうしておれの居場所がわかった」
「調べてもらった」
「探偵でも雇ったか。やれやれ、こんな思いをすることになるとはな」
 娘と息子が小賢(こざか)しい真似(まね)をしたかのように父は苛立(いらだ)っていた。あたかも悲劇の主人公のような言いぐさだ。だけどその舞台の上には自分しかいない。かつての家族は誰もいないことに気がついてないのかもしれない。
「お前たち、ひさびさに父さんと会って話すことはそれだけか。和則(かずのり)、たしか嫁をもらったんだったな。結婚生活はどんな調子だ」
「問題ないよ。式の招待状はいちおう出したんだけど」弟は頭を上げず、自分の膝小僧と話している。そのほうが父との会話は長持ちするのをよく知っているのだ。
「あのころはちょっとバタバタしていたからな。で、お前は? 今日はおれの孫は一緒じゃないのか」
「話を逸(そ)らさないで、サイン」
「あの坊やはまだ一人っ子か、お前、父(てて)なし子をまたぞろ産んじゃいないだろうな」
 スツールをはねのけて弟が立ち上がった。姉を侮辱されて拳を固めている。まともに取りあっちゃだめ、こういう人なんだからと姉は目顔で制する。暴力をふるうことはなくても、他人をマウンティングしたがるところはまるで変わっていなかった。
「孫の話ぐらいしてもいいだろ。そもそも探偵なんて雇わなくてもケイに聞けばよかった。おれの居場所はケイには伝えてあるから。何かあったらいつでも来いってな。その様子じゃお前、あいつとろくに話もしてないな」
「適当なことを言わないで、そんなの噓」
「あいつが家出したときに、気まぐれにおれを訪ねてきたことがあった。それから交流があったんだよ、あいつはそれも母親に隠してたんだな」
 顔の奥が熱くなるのを感じた。関知してない息子の話を、この父の口から聞かされたくなんてなかった。たぶん噓は言っていない。ケイが家出をしたのは一度や二度ではなかったから。しかもそれも、あとから母さんに聞かされた事実だった。
 唯一無二の絆(きずな)で結ばれた母子(おやこ)ではなかった。息子がもっとも世話を必要としているときに、わたしはあの子を放ったらかして自分の人生を軌道に乗せようとしていた。ケイを育てたのは母さんで、その母さんが病気になって世話をしてくれる人間が必要になったときにも、わたしは心の底でそれを拒否した─姉はうなだれる。どこまでいってもわたしは誰かの世話をすることができない人間だ。そのことが後ろめたいからこそ、弟を無理に付き合わせて父に離婚届を突きつけている。
「とにかく面倒はごめんだ。友子、お前ならわかるだろう。家族ってのは一筋縄じゃないかないもんだ。今さらそんなものを振りかざしたところで過去は戻ってこない。むしろあいつがどうしてもと言うなら、おれが看取(みと)ってやってもいい。夫婦ってのは最後は元の鞘に戻るものだからな」
「お願いだから、母さんを縛りつけないで」
「サインはしない」

プロフィール

真藤順丈(しんどう・じゅんじょう) 1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で、第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。18年から19年にかけて『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。著書に『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』『しるしなきもの』『黄昏旅団』『夜の淵をひと廻り』『われらの世紀 真藤順丈作品集』など。