グレート・ナンバーズ
真藤順丈Junjou Shindou
こっちに来るんじゃねえ! 先制攻撃ではたき落としても、すぐに巣から大群が攻めてくる。下手を打てばすぐに体勢を崩してまっさかさま。選択肢はひとつしかない。キドーは瞬(まばた)きを止める。呼吸を止める。鼻毛すらそよがせない。旋回していたスズメバチが首筋に止まっても、キドーは〈壁〉の擬態をつづける。心を静めて、アドレナリンを放出させない。刺(や)られたらオダブツだけど、われは壁なり、と微動だにせず擬態を貫きとおして、スズメバチにもそれを信じこませる。
ほどなくして、攻撃に移ることなく体から離れて、飛び去っていった。充分な間を置いてからキドーは再び動きだす。毎分数センチ単位でゆっくりと動いて、蜂の巣を離れてからは全速力で登攀(とうはん)する。オーバーハングのようにせり出したバルコニーの下部のでっぱりに指をかけると、懸垂でその身を引き上げて、離れ業の連続で九十二階のスイートに達していた。ブラボー、ブラボー!
「着きましたぜ、旦那」
さてさて、そこからキドーの仕事は一変する。景山は予約担当係に手をまわし、バルコニーに出られるスイートに王子を泊まらせていた。
あらかじめ窓の錠前も外してあった。たとえ部屋とバルコニーの往き来があったとしても、客はまさか九十二階に強盗が入るとは考えないからいちいち鍵は閉めない。もしも締まっていたら、腰の作業帯に入れてきたガスバーナーで焼き破りをしなくてはならなかったが、さいわい錠は下りていなかった。
物音を立てないように窓を開けてリビングに侵入する。吹きこむ突風でカーテンが舞った。寝室からの声はない。お楽しみは終わっちまったか? 完全に寝入るのを待ってから景山に渡された注射で永遠の眠りにつかせるもよし、王子もろとも絞め殺して無理心中に見せかけるもよし。もしくは押し入った強盗の仕業に見せかけて、仕事がすんだら脱出して雲隠れしてしまえばよかった。
景山は飛び道具を使う利点をそのフレキシビリティに見出していたし、キドーにしてもそれだけの報酬はもらっている。賊にしたてられて逮捕状が出たところで行ってこいでチャラ。そんな割りきりこそがキドーたちプロのプロたる所以(ゆえん)だった。
リビングには酒壜や料理の皿、ふざけて脱ぎ散らかしたシルクのローブやスパンデックスのトランクス。バスルームのほうから物音がしたので、キドーはとっさにクローゼットに隠れた。乱痴気騒ぎは終わったあとか、それならそれで隙をうかがってここから飛びだし、女の喉首を掻き切って退散だ。物音はソファや机の角にぶつかりながらこちらに向かってくる。荒い息づかいが聞こえた次の瞬間、外からクローゼットの戸が開け放たれた。
「ここだぁ、見ぃつけた! さあ今度は君が、僕ちゃんのエロティックなボディにひれふす時間だぞぉ」
驚くほど肥(ふと)った男が、ローションでてかてかに光る裸をさらしていた。身につけているのは黄色地に蝶(ちょう)の羽根模様をあしらったネクタイだけで、しかも首に巻くのではなく目隠しに使っている。手足にもあごの下にも脂肪の階段ができていて、垂れ下がる腹の肉で局部が見えないほどだった。しかしまあ、すげえデブだな。クローゼットで見つけた相手がなんの反応も返さないので、王子はみずから目隠しをずり上げて、そこにいたキドーと視線を突き合わせて、
「どちらさま」
王子が訊いた次の瞬間、キドーは刃物のひと振りで頸動脈を掻き切った。
- プロフィール
-
真藤順丈(しんどう・じゅんじょう) 1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で、第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。18年から19年にかけて『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。著書に『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』『しるしなきもの』『黄昏旅団』『夜の淵をひと廻り』『われらの世紀 真藤順丈作品集』など。