グレート・ナンバーズ
真藤順丈Junjou Shindou
わけもわからないままに血を噴いて、潮を噴くクジラのように王子が倒れる。
地鳴りのようなその音で、ダイニングルームのほうから裸の妊婦が出てきた。
「マフちゃん?」
相手がそう言うが早いか、キドーはソファを跳びまたぐようにして敏捷(びんしょう)に襲いかかった。どういうプレイをしていたのかにはさして興味もない。速やかに仕事をかたづけることだけを考えて、振りおろしたナイフは間一髪でかわされる。飛びのくなり女は、ワインクーラーや果実の皿をめちゃくちゃに投げてきた。瞬きひとつするかしないかのうちに、キドーは女の背後にまわり、羽交い絞めにして口を押さえつけた。あとはあのデブとおなじく、横一文字に首を薙(な)げばおしまいだった。
わりと楽な仕事だったね。
ところでこの女が、旦那の言う神殿娼婦か。
どのあたりが〈神殿〉なんだろね。
そんな考えが脳裏をよぎった。やっぱりこのへんか? 肩口から見下ろすお腹がきれいな球形に見えたので、ちょっと触ってみたくなる。最初に身ごもった女のお腹を受け継いで守りつづけてきた女のお腹のように感じて、汗だくで羽交い絞めにしておきながら腹にふれるのは不躾(ぶしつけ)なような気がした。ここで女の息の根を止めたら、胎(はら)の子も出てこられないわけか。ちょっと不憫(ふびん)ではあるけど、まあしゃあないね。─などとキドーが思いをめぐらせたのは一秒にも満たなかったはずだった。
その一瞬が、事の明暗を分けた。あるいはそれこそ、神殿娼婦の霊力の導きだったのか。天からの閃電(せんでん)が轟(とどろ)きわたって─
グォングォングォングォングォンと鐘を撞(つ)くような音が耳をつんざいた。
こりゃなんだ、おい、なんの音だ。
落雷、ちがう。地震、ちがう。火災報知器らしきものが鳴り響いている。自身の行いが探知されたような錯覚に戸惑ったキドーの、ナイフを振るう手がさらに遅れる。警報を聞かされて、番犬のように躾(しつ)けられた外の男たちもスイートに飛びこんでくる。そこで雇い主に刃物を突きつける侵入者と鉢合わせだ。
そこからは修羅場だ。修羅場でしかない。ボディガードは要人警護の民間委託会社から派遣された男たちで、拳銃携行のオプション料金ももらっていた。室内の惨劇に驚いた一人が勢い発砲する。たちまち銃と刃物の乱闘沙汰だ。身のこなしや経験した修羅場の数ではキドーが上手(うわて)だった。家具の陰に身をひそめて発砲をやりすごし、滑るように跳ぶように男たちを仕留めていくけど、ありゃりゃ女は? 修羅場にくらまされて本来の標的(ターゲット)を見失う。どれだけ血が流れても、命がひとつ消えても、それは神殿娼婦の血でも命でもなかった。
薄手のローブを拾いあげ、あわただしく肩から羽織って。
フレイヤは、ホテルの廊下へと逃げだしていた。
- プロフィール
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真藤順丈(しんどう・じゅんじょう) 1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で、第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。18年から19年にかけて『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。著書に『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』『しるしなきもの』『黄昏旅団』『夜の淵をひと廻り』『われらの世紀 真藤順丈作品集』など。