-短編ホテル-「グレート・ナンバーズ」

グレート・ナンバーズ

真藤順丈Junjou Shindou

 そこまで行ったところで、ソファに腰を下ろしたフレイヤがお腹を押さえてうずくまり、苦しげな喘鳴(ぜんめい)を漏らしはじめる。下半身が微かに痙攣している。もしかして産気づいたか? この機を逃すまいと景山はひと息に間合いをつめて、フレイヤの正面に立った。「お客さま、大丈夫ですか」と声をかけながら膝をつこうとしたそのとき、フレイヤが至近距離で立ち上がり、あごに赤い頭をぶつけてきた。そのまま揉み合いになって崩れ落ち、上になり、下になって、気がつくとフレイヤの右手がオベリスクのオブジェを鈍器として利用しようとしていた。
「最初からおかしかった。あなたの目は、あの男よりもよっぽど人殺しの目だよ」
 ためらわずに振り下ろされて視界に閃光が走った。朦朧とする意識の隅にフレイヤの声が聞こえた。
 信じられない。この私が主犯格であることを見破られのか、わずかな時間をともにしただけで? これまでの三人の男とはちがう、あの女は勘が良すぎる─とはいえ景山もしゃべりすぎたきらいはあった。フレイヤを密室に呼びこみ、近づいて首を絞めたいあまりに〈壁登り〉だの〈刺青の殺し屋〉だのと語るに落ちた。相手が言いだしそうなことを先回りする思考が染みついたコンシェルジュならではのミスかもしれない。撲られた頭を押さえて立ち上がったが、すでに女はスイートから逃げだしていた。
「すべてのエレベーターを停めろ」
 屈辱と憤りにまみれて景山は制御室に指示を飛ばす。ちょうどそのときフレイヤは降りていく一台に乗っていて、ガタン、と大きく揺れて急停車したエレベーターの内部ですくみ上った。「貴様はなにをしている、尻拭いは自分でしろ!」「あいよ」と別の回線で景山とキドーのやりとりがあって、倒れた護衛たちの中でただ一人立っていたキドーは九十三階のエレベーターの扉をこじ開け、眼下に延びる縦穴をブランジャーやシリンダーを伝って下りていき、フレイヤが乗った昇降かごの屋根に飛び乗った。護衛たちとの乱戦で被弾はしたけどまだまだ動ける。つまりまだまだ危険。上部のパネルを開けたキドーが、フレイヤと顔を合わせて嗤(わら)った。
「悪いけど、ちゃんととどめを刺さないとなんねえんだわ」
 ああ、逃走もこれまでか、エレベーターの密室に逃げ道はない。パネルの蓋をどかして下りてきたキドーが、床面に足をつけたその瞬間だった。壁際から体ごとぶつかっていって反対の壁にキドーを押しつけた者がいた。おっおっ、あんた誰? 予期せぬ反撃に驚くキドーは、エレベーターにフレイヤ以外の乗員がいたのを知らなかった。
 スカイ・ラウンジから降りてきた羽貫姉弟だ。エレベーターの上から侵入してきた暴漢に果敢にもぶつかっていたのは、姉のほうだった。父にサインをもらえるまでは帰らないつもりだったけど、警報が鳴ったので避難せざるを得なくなった。停まっていたエレベーターがようやく動いたので乗りこんだら、途中でローブだけをまとった妊婦が乗りこんできて、「助けて」と姉弟に言った。
 ただその一言だけですすんで体を張るほど善人ではなかったけど、離婚届にサインをもらえずあまりに歯がゆかったのと、ふくらんだお腹を見たその瞬間に、自身が身ごもっていたころのことを思い出して─

プロフィール

真藤順丈(しんどう・じゅんじょう) 1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で、第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。18年から19年にかけて『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。著書に『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』『しるしなきもの』『黄昏旅団』『夜の淵をひと廻り』『われらの世紀 真藤順丈作品集』など。