-短編ホテル-「グレート・ナンバーズ」

グレート・ナンバーズ

真藤順丈Junjou Shindou

 できれば出てこないで。ずっとそこにいて。
 お腹のなかにケイがいるとき、わたしは夫もいないこの世界に生まれてきてほしくなかった。わたしは母親になんてなりたくなかった。
 もしかしたらそのうち、成長するわが子を見ているうちに、いずれなりたくなるかもと期待していたけど、そうはならなかった。こんなことにならなきゃよかったと思っていたわけではなくて、もっと別のかたちでこうなってほしかったと思ってきた。

 血と汗にまみれて、ほとんど裸で、こんなありさまになっても何かから逃げているんだから、この女(ひと)はちゃんと産もうとしている。ちゃんと母親になろうとしている。こんな姿の妊婦を追いたてる人間は、事情はどうあれひとつの命が生まれるのを、この女(ひと)が母親になるのを阻もうとしている人たちだ。
 もう一度、ケイと母子になれると思った。というよりもそうなりたいのだと気がついた。だからキドーが降ってきたとき、姉はとっさに自分の表情が消えるのがわかった。人としての表情が。父にもたらされた屈辱の反動も手伝って、獣のような脊髄(せきずい)反射でぶつかっていった。姉ちゃん、おれたち関係ねえじゃん! と弟の声が聞こえたけどなにやってんのあんたも手伝って。退くに退けなくなった弟も、姉に加勢してキドーを押さえつけ、手首を捻(ひね)りあげて凶器を奪うのに成功した。この弟、勤務する学校で体育教師だったので腕っぷしはぼちぼち。キドーも被弾による失血で体力を失っていた。フレイヤはキドーの装備を奪うと、ナイフの柄でくりかえしキドーの頭を殴った。むう、と血の足りないキドーが失神して、すると外から「おい、やっぱ人が乗ってるぞ!」と声が聞こえた。工具で扉をこじ開けて、懐中電灯で内部を照らしてきたのは、森、瓶子、貞尾のアッシャーズだ。上半分だけつながった乗降口からフレイヤと姉弟を引っぱりだして、半裸のフレイヤの姿にしどろもどろに動なりながら貞尾が言った。
「だけどあんた、人を殺したんでしょう。おれたちはあんたを見つけたら連れてくるように言われていて。あんたにはいろんな逸話があるから、おっかないんですよ」
 濡れ衣(ぎぬ)を晴らすために事情を話したけど、アッシャーたちはすぐには信じようとしない。景山コンシェルジュが殺人の主犯だなんて、真に受けられるわけないよ、おれたちの首が飛びかねない。だけどあの人なら……いやでもおれたちの上司だぞ、と三人とも優柔不断このうえない。見かねた羽貫姉がフレイヤに目配せして、「ねえ、あなた破水してない?」と言いだした。
 実際はしてなかった。してなかったけどフレイヤも話をあわせて、股間に当てた掌(て)をひろげて見せた。そこには血がべっとり。本当はキドーの血だったけど、アッシャーたちは、不正出血! と騒ぎだしてとにかく一刻も早く病院に連れていかなきゃという場の空気がまとまっていた。

プロフィール

真藤順丈(しんどう・じゅんじょう) 1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で、第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。18年から19年にかけて『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。著書に『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』『しるしなきもの』『黄昏旅団』『夜の淵をひと廻り』『われらの世紀 真藤順丈作品集』など。