グレート・ナンバーズ
真藤順丈Junjou Shindou
アッシャーたちはおなじ階のリネン室からシーツ運搬用のワゴンを出してきて、かごのなかにフレイヤを乗せた。連絡通路を抜けてバックヤードへ、業務用のエレベーターを使って下階に降りて、地下の従業員通路から屋外に出る経路を選んだ。ホテルスタッフしか知らない経路の選択が助けとなって、タワーホテルの脱出がすぐ目の前まで見えてきていた。
「お腹の子の父親は、何をしているの」ついてきた羽貫姉が移動のさなかに訊いた。
「あの男はたぶん、実家に監禁でもされてるんじゃない」シーツに埋もれたフレイヤが答える。「この子の父親になることはない。それで養育費だけでも絞ろうとしたんだけどね。愛してもいない男の実家に関わるものじゃないね」
「初めから、一人で産むつもりだったの?」
「私は、人が死ぬのを見すぎたから」
フレイヤはちいさく荒く息を吐きながら切々と語った。
「海の向こうでも、高齢者の複合施設でも。感染症で恋人も死んだし。施設なんて毎日毎日、人が死ぬんだよ。冷たい海に崩れ落ちる南極の氷みたいに。それまでどんな人生を送ってきたとしても、まとめておなじところに消えていくの。だからひとつぐらい命を産みたいと思った。愛してるわけじゃなかったけど、相手の男もそんなに悪いやつじゃなかったし。お前が笑ってるあいだだけはこの世界は正しい、なんて私に言ってくれたし、だから産もうって。その男とのあいだの子というよりも、これまでめげずに生きてきたご褒美としての命って感じかな」
「すげえな、なんか……」
「噂はどれも本当だったのか」
「おれ、あなたを信じます」
森がワゴンを押しながら葛藤をふっきるように言った。
「景山さんよりもあなたを。だから無事にあの人の手から逃がせたら、おれとキスしてくれませんか。おれ、キスが上手いんです」
「こんなときに頼むことか」
「黙れ」
瓶子と貞尾が、後輩をどやしつける。フレイヤも呆れたように笑って、
「それは断わる」
たった一言で切り捨てた。神殿娼婦を見くびらないでね、キスだけでも値が張るのはわかるよね? ディスカウントなら考えてあげてもいいけどね。
夜の出口まではあとすこし、地下通路のスロープの先には、わずかに街頭の灯りが見えてくる。だけどそこで、街路側からスロープを下りてくる人影があった。靴音を硬く響かせて一行の前に立ちはだかったのは、ホテルのあらゆる経路に通じたコンシェルジュだ。影の落ちた顔に張りつけているのは、レセプション向けの笑顔ではない。酷薄で無慈悲な、強度のある抹殺の願望だった。
- プロフィール
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真藤順丈(しんどう・じゅんじょう) 1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で、第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。18年から19年にかけて『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。著書に『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』『しるしなきもの』『黄昏旅団』『夜の淵をひと廻り』『われらの世紀 真藤順丈作品集』など。