-短編ホテル-「サンセールホテル」

サンセールホテル

柚月裕子Yuko Yuduki

 水野は部屋のなかに戻っていく。三人はあとに続いた。
 バスルームに入った水野は、浴槽の底を指さした。
「ここよ、ここにこう挟まって取れなかったの」
 水野が宿泊している本館は、開業当時の趣を残すために、敢(あ)えてそのころの備品を使用している。浴槽は足のついた仕様で、排水口はのちにつけ直したゴム栓で塞ぐようになっていた。
 水野は床にしゃがみ、指輪を排水口に押し込んだ。
 排水口のなかには、金属製の部品が設置されている。目皿と呼ばれる小さなもので、サンセールホテルが使用しているものは、網目状の一部が立ち上がり、排水のときに羽が回転するタイプのものだった。その羽の部分に指輪がひっかかり、抜けなくなったのだという。
「このホテルのお湯は硫黄でしょう。取り出すあいだに、温泉の成分で変色してしまったのよ」
 水野のいうとおり、サンセールホテルが引いている源泉は、硫黄泉と呼ばれているもので、卵が腐ったようなにおいがすることで有名だ。これは、湯に含まれる硫化水素という成分によるもので、金属類を変色させてしまう特徴がある。
 だからといって、自分が指輪を湯に落としたことが、どうしてホテル側の落ち度に繋がるのか。
 そう訴えようとした広大を、三輪が手で止めた。心から気の毒そうに、水野に言う。
「それはまことに災難でした。水野さまのお気持ちお察しいたします」
 広大は三輪からホテルマンとしての心得をいくつか教え込まれた。そのひとつに、客が気分を害したときは一にも二にも気持ちに寄り添うべき、がある。ホテル側がどのように応対するかはそのあとだと言う。三輪はその心得を実践しているのだ。
 三輪の言葉に水野の怒りが少しは収まるかと思ったが、そうはならなかった。ものすごい形相で三輪を見ると、大きな声を出した。
「この指輪、弁償しなさい」
 この要求には、さすがの三輪も驚いたようだった。冷静さを保とうとしているようだが、声が上ずっていた。
「水野さま。いまのお話だけでは当方の不手際と言いかねるように思いますが─。温泉の成分に関しましても、ガイドのご説明の個所(かしょ)に貴金属は変色する可能性があるのでお気を付けいただくよう記載しております」
 水野は聞く耳を持たない。三輪に食って掛かる。
「この指輪はね、有名なラグジュアリーブランドのもので五百万円はするの。それがこんなに色が変わってしまって─それもこれも、ホテル側の設備が悪いせいよ。落としたあと、すぐに取り出せていたらこんなことにはならなかった。指輪がこんなになってしまったのはホテルのせいよ。弁償してもらうから!」
 水野の怒声は、廊下に聞こえるかと思うほどだった。同じフロアの客が聞きつけたら騒ぎが大きくなる。三輪は慌てた様子でこの場を収めに入った。

プロフィール

柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。