サンセールホテル
柚月裕子Yuko Yuduki
「御託はいらないの!」
水野の怒声が、三輪の言葉を遮った。
「私は、指輪を弁償しなさいって言ってるの。そっちの考えなんかどうでもいい。さっさと弁償方法を決めて」
三輪は低姿勢を崩さず、水野の言葉を押し戻す。
「お客様のご心痛はお察しいたします。当ホテルでこのようなことが起きてしまったことは、私どももまことに残念でございます。しかしながら、いまおうかがいいたしましたお話ではお客様のご要望に沿うことはいたしかねます。ただ、ほかに私どもにできることがございましたら可能な限りさせていただきます」
三輪は相手を立てながらも、毅然とした態度を崩さない。
水野はしばらく黙っていたが、やがて三輪を睨みながら宮田を呼んだ。
「支配人」
急に矛先が変わり、宮田は裏返った声で返事をした。
「は、はい」
水野は視線を宮田に向ける。
「この人じゃ話にならない。責任者のあなたの考えを聞きたいわ」
浮気の現場を押さえられたとしてもこれほどではないだろう、と思うくらい宮田は動揺していた。制服のポケットからハンカチを出し、額に浮き出た汗を押さえながら言う。
「いま三輪が申し上げたことは、サンセールホテル創業当時からのモットーで、スタッフ全員がその教えに従い働いております。ここにおります秋羽もそれは同じで、お客様のことを第一に考えておりますし、ほかのスタッフも決してモットーに反するような振る舞いは─」
宮田はしどろもどろといった態(てい)で、ホテル側に落ち度はないと伝えようとする。
水野はまだ話している宮田を、冷たい声で止めた。
「もういい。わかった」
宮田の顔が、ぱっと明るくなった。満面の笑みで、水野に訊ねる。
「ご理解いただけましたでしょうか」
水野は、斜(はす)に宮田を睨んだ。
「あなたたちでは話にならないことが、よくわかった。もっとうえと話をつける。社長を呼んで」
宮田が悲鳴にも似た、短い声をあげる。
「水野さま、少々お待ちください。お客様の対応は、私たち現場スタッフの仕事です。まずは私どもが水野さまのお話をおうかがいして─」
「それで埒(らち)が明かないから、社長を呼びなさいと言っているの。なにを言っても無駄よ。もう決めたから」
宮田は水野を思いとどまらせようと、あの手この手で懸命に説得を試みる。しかし、水野の考えは変わらなかった。社長を呼び出せといって譲らない。
このままでは平行線だと思ったのだろう。三輪がふたりのあいだに割って入った。
- プロフィール
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柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。