サンセールホテル
柚月裕子Yuko Yuduki
大概の者は、いまの東堂の説明で納得するはずだ。しかし、気性が激しい水野が、大人しく引き下がるだろうか。感情を昂(たかぶ)らせ、激昂(げっこう)する可能性もある。
広大は伏せていた目をあげ、水野の表情をうかがった。
水野は無表情だった。怒っているのか、冷静に事を受け止めているのか、感情が読み取れない。
広大が東堂に、このあとどうするのか、と目で問いかけようとしたとき、水野の口元が動いた。ほんのわずか、水野の口角があがる。
広大は身を固くした。水野の笑みは、企てが成功したときのような勝者のそれだった。
東堂も水野の変化に気づいたのだろう。緊張した声で訊ねる。
「私がなにか、おかしいことでも申しましたでしょうか」
水野はソファの背にゆったりともたれ、余裕の表情で首を横に振った。
「いいえ。どうやら私、自分の思い込みであなた方にご迷惑をかけたみたい」
意外にも、水野は東堂の説明をすんなりと受け入れた。
広大は胸をなでおろした。
水野は納得してくれた。これで事は収まった。そのはずなのに、なぜか胸がざわつく。
隣で東堂が水野に礼を言った。
「ご理解いただきありがとうございます」
水野はテーブルのうえにある指輪を包んできたハンカチごと手に取り、四方から眺めた。
「私もまだまだね。もっと物を見る目を養わないといけないわ」
しばらく水野は指輪を見つめていたが、やがて不自然なほど表情を崩し東堂を見た。
「ひとつお願いを聞いてもらえないかしら」
東堂は頷いた。
「お客様のお望みをできる限り叶(かな)えてさしあげるのが、当ホテルのモットーです」
水野は満足そうに頷いた。
「この指輪が偽物だと、あなたではなく社長に言っていただきたいの」
思いもよらない要求に、広大は身構えた。
水野は東堂の説明で納得したのではなかったのか。なぜ、改めて社長に言わせる必要があるのか。
東堂は厳しい表情で訊ねる。
「理由をお聞かせ願えますか」
水野は軽い口調で言う。
「あなたの説明で、この指輪がどのようなものかわかったわ。話を聞いたとき、然(しか)るべきところで鑑定しようかとも思ったけれど、落ち着いて考えたらその必要はないとわかったの。だって、実際に指輪はこうして変色しているのだから、偽物に間違いはないんだもの。調べてもらっても手間とお金がかかるだけで意味がないわ。だけど、このまま引き下がるのも釈然としない。そこで、このホテルのトップにはっきりと言っていただければ、諦めがつくと思ったの」
水野は悲しそうな顔で、手にしている指輪を見た。
「面倒な客だと思うでしょうけれど、これもなにかの縁だと思って諦めてちょうだい。私も心の持っていき場がなくて、こうでもしないと気持ちの整理がつかないのよ」
- プロフィール
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柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。