-短編ホテル-「サンセールホテル」

サンセールホテル

柚月裕子Yuko Yuduki

 水野は目だけをあげて東堂を見やった。
「社長のひと言でこの件はなかったことにする。だから、お願い」
 水野のいうとおりにすれば、事は穏便に収まる。社長からすれば貴重な時間をひとりの客のために捻出するのは大変かもしれないが、ホテルの客を大切にするのも大事な仕事だ。ここは社長に出ていただくのがいいように思う。
 東堂もきっと同じように考えているはずだ。
 そう思い、ちらりと東堂を見た広大は血の気が引いた。
 東堂は厳しい顔で水野を見ていた。睨んでいるといってもいい。それほど東堂の顔は険しかった。
 口を真一文字に結んでいた東堂は、やがて短く水野に訊ねた。
「それだけでよろしいのですか」
 水野が口にした言葉の意味が、広大にはわからなかった。なにがそれだけなのだろう。社長がひと言、この指輪は偽物だ、と言えばすべてが終わること以上になにがあるのか。
 水野も東堂に、短く答える。
「ええ、それでいい」
 水野はソファから立ち上がった。
 続いて立ち上がった東堂に言う。
「社長と会える日時が決まったら教えて」
 水野はそう言い残し応接室を出て行った。
 部屋を出たところの廊下で、東堂と広大は水野を見送った。
 廊下の奥へ水野の姿が消えるのを待ち、広大は東堂に急(せ)き込んで訊ねた。
「東堂さん、あれはどういう意味ですか。それだけでいいのかって、ほかになにがあるんですか」
 東堂は難しい顔で目をつむる。
 広大はさらに詰め寄る。
「たしかに現場で対応すべき問題で、社長を煩わせるのは申し訳ないと思います。でも、それでお客様が満足されるならば─」
「そんなことじゃない」
 東堂が広大の訴えを途中で遮る。
 声の重さに、広大は口をつぐんだ。
 自分でも意図せず、声がきつくなったのだろう。東堂は一度広大に向けた視線を、ばつが悪そうに逸らした。
「水野さまの件は、ここから私がすべて引き継ぐ。現場は関与しなくていい。宮田さんと三輪さんにも、そう伝えてくれ」
 東堂の声には、反論を許さない強さがあった。
 広大はなにも言えず、この場を立ち去る東堂の背を見送るしかなかった。

「現場は関与しなくていい、そう東堂さんがおっしゃったのか」
 人払いしたスタッフルームで、宮田は広大に確認とも質問ともとれる言い方で詰め寄った。

プロフィール

柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。