サンセールホテル
柚月裕子Yuko Yuduki
広大はドアの前で深呼吸をして、チャイムを押した。
なかで人が動く気配がし、少しの間のあとドアが開いた。水野が不機嫌そうに訊ねる。
「いったいなんの用?」
ドアスコープで誰が訪ねてきたか確認したのだろう。広大を見ても驚かなかった。
広大は頭をさげて詫びた。
「お休みのところ申し訳ございません。急ぎ、水野さまにお伝えしたいことがありお伺いいたしました」
「なに? 疲れているの。早くして」
広大は顔をあげて、水野を見た。
「指輪の色が戻るかもしれません」
水野は眉をひそめた。
広大は説明する。
「もしそちらの指輪が銀製品だった場合、身近にあるものでもとに戻せるんです。金属製以外の入れ物にアルミ箔(はく)を敷いて、そのなかに指輪を入れます。そこに指輪が浸るほどの湯を入れ、一定量の重曹を加えます。しばらく時間を置くと、もとの色に戻るんです」
湯に入れるものは、重曹のほかに塩やベーキングパウダーでも代用できる。インターネットで金属製品が温泉の成分で変色する仕組みを調べたときに、同じページに載っていた情報だった。
「あの指輪の素材がシルバーだったならば、ぜひお試しください」
水野は何も言わない。不意打ちを食らったような顔で、広大を見つめている。
広大は自分で、血の気が引くのがわかった。
指輪の色が戻れば少しは水野の気持ちは晴れるだろうか、そう思い伝えたことだったが、気を悪くしただろうか。改めて、指輪は偽物だと強調することになってしまったのだろうか。
沈黙が重く、広大はたまらず詫びた。
「余計なことを申しました。申し訳ございません」
下げた頭に怒声が落ちてくるだろうか。そう思い身構えていると、聞こえてきたのは短いつぶやきだった。
「どうして」
問いの意味がわからず、広大は頭をあげた。水野は悲しそうな顔で広大を見ていた。
「あの指輪は偽物よ。あんな価値がないものを、どうして戻そうとするの」
言葉を選ぶ余裕はなく、広大は思いつくままに答えた。
「あの指輪が本物か偽物か、私にはさして重要なことではなく、ただ、とてもきれいな指輪なので、もとの色に戻ったらもっときれいだろうなと─それに、そうなれば水野さまのお気持ちも少しは晴れるかと思ったものですから─」
広大は水野の言葉を待った。しかし、水野はなにも言わない。黙って広大を見ているだけだ。
どうすることもできず立ち尽くしていると、やがて水野はぽつりと言った。
「もう、寝るわ」
- プロフィール
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柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。