-短編ホテル-「サンセールホテル」

サンセールホテル

柚月裕子Yuko Yuduki

 広大は深く頭をさげた。
「ごゆっくりおやすみなさいませ」
 ドアが閉まり、広大ひとりになった。
 頭をあげ、閉じられたドアを見つめる。
 水野を怒らせてしまっただろうか─。
 余計なことをしてしまった自分を責めても、もう取り返しはつかない。愚かな自分を嘆きながら、広大は部屋の前から立ち去った。

 クロスバイクから降りた広大は、大きなあくびをして眠い目を擦(こす)った。
 昨夜、仕事を終えて自分のアパートに帰りベッドに入ったが、水野のことが頭から離れずなかなか寝付けなかった。
 今日も早番だから、朝の五時には起きて身支度をしなければならない。早く眠らなければと思えば思うほど目が冴(さ)え、結局、睡眠は二時間ほどしかとれなかった。
 制服に着替え終えた広大は、自分の頬を両手で強く叩いた。
 水野の件は、自分が悩んでも仕方がない。社長と東堂に委ねるしかないのだ。
 気持ちを切り替えて、朝礼が行われるスタッフルームのドアを開けたとたん、怒声にも似た声で名前を呼ばれた。
「秋羽くん!」
 宮田だった。恐ろしい顔をしている。宮田は広大のところへ駆け寄ると、腕を掴(つか)んでスタッフルームから連れ出した。
 広大は慌てた。
「どうしたんですか。朝礼は─」
「ほかの者に任せた。そんなことより、君に訊きたいことがある」
 宮田は声を潜めてそう言うと、そばにあるもうひとつのスタッフルームに広大を連れていった。
 なかには三輪がいた。宮田と同じく、怖い顔をしている。
 怒鳴りたい思いをこらえていたのだろう。宮田は後ろ手にドアを閉めると同時に叫んだ。
「いったい水野さまになにをしたんだ!」
 広大は息が止まった。
 やはり昨日、お部屋に伺ったことをお怒りになったのだ。そして、ホテルに広大に対するクレームを入れたのだ。
 広大はしどろもどろになりながら答える。
「自分としては水野さまのことを思ってしたことだったのですが、勝手な思い込みと言いますか、傲慢な善意と言いますか─」
 はっきりしない広大に業を煮やしたのか、宮田は話を途中で遮った。
「今日、社長と東堂さんが水野さまとお会いになるが、水野さまがそこに君を同席させろと言っているんだよ!」
 広大は口を開けて宮田を見た。
 予想もしていなかった展開に声を失う。ひと言だけ、ようやく絞り出した。
「私を、水野さまが─」

プロフィール

柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。