-短編ホテル-「サンセールホテル」

サンセールホテル

柚月裕子Yuko Yuduki

「あなたも大変ね。仕事とはいえ、あんな男の尻ぬぐいをしなければいけないなんて」
 わけがわからずにいる広大を、水野が見た。
「あなたには、謝らなければいけないわね。私の個人的な問題に巻き込んでしまって、ごめんなさい」
 どう答えていいか戸惑っていると、東堂が疲れたように額に手を当てた。
「今回の指輪は、以前、社長が水野さまに差し上げたものだ」
 驚きのあまり、短い声が出た。
「社長と水野さまは、お知り合いだったんですか」
 水野が遠くを見て笑う。
「お知り合いどころか、婚約者だった。そう思っていたのは、私だけだったけど」
 東堂が、今回の件に関しての説明をする。
 水野は経営コンサルタント企業の経営者で、社長とは三年前に知り合った。
 きっかけは、社長の父親で現会長の小ノ澤徳弥(とくや)が現役から退き、代表取締役に息子の秀俊が就いたときだった。
 サンセールホテルをさらに大きくしようと考えた社長は、業界でやり手で知られる経営コンサルタントのもとを訪ねる。そこの代表者が水野だった。
「東堂さんは、水野さまにお会いになったことはなかったんですか」
 社長秘書の立場ならば、経営に関する相談の場に同席するのではないか。
 東堂は首を横に振る。
「たしかに私が社長に一番近い人間だろう。しかし、それはご意見番という立ち位置で、経営に関することは専門部署の管理営業部門に任せている。だから、社長が水野さまの会社へ行くときは、管理営業部門の支配人かその下の者が同行している」
 美しいだけでなく聡明(そうめい)な水野を、社長はすぐに気に入った。
 水野は可笑(おか)しそうに笑った。
「知り合って一か月もしないうちにプロポーズしてくるなんて、面食らったわ」
 東堂は、言い訳とも擁護ともとれる言葉を漏らす。
「社長は熱量が高く、なにごとも関心を持つと夢中になる方なんです」
 水野は記憶を辿るように語る。
「私はクライアントとは特別な関係にならない主義なの。情が絡むと正確な判断ができなくなるから。でも、あれだけ熱心に口説かれたら、さすがの私も悪い気はしなかった。そしてダメ押しがこの指輪だった」
 夜の食事の席で、社長は婚約指輪として件の指輪を水野に渡したのだという。
 水野は自嘲した。
「物の値段と気持ちがイコールだなんて思っていなかったけれど、五百万円もする指輪をプレゼントされたら、それほどの愛情を持ってくれてるって思ってしまった。いま振り返れば、それがそもそもの間違いだったの」
 水野は指輪を受け取り、社長と結婚する決意をした。
 社長の様子が変わったのは、それからまもなくだった。
 毎日あった連絡があいだを置くようになり、多忙を理由に会う機会が減った。久しぶりに会っても、込み入った話はしない。会話は終始、世間話や雑談の域を出ない他愛もないものにとどまった。

プロフィール

柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。