サンセールホテル
柚月裕子Yuko Yuduki
やがて社長は、経営コンサルの契約を解消し、関係はそれきりになった。
「恋愛経験はそれなりにある。別れを切り出したことも切り出されたこともあるから、連絡が途絶えてもショックはなかった。でも、だからといってまったくなにも思わなかったわけじゃない。一度は結婚を考えた相手だもの関係が続いていたらどんな暮らしをしていただろうって、想像したこともあるわ」
しかし、水野は社長を追いかけなかった。
水野は寂しげに目を伏せた。
「世の中で、一番ままならないのは人の気持ちだと思う。好きな相手を嫌いになりたいと思っても無理なように、嫌いな相手を好きになることもできない。それは相手も同じ。離れてしまった相手の心を取り戻したいと思っても、それは限りなく不可能なの。だから、彼とはきっぱり縁を切った」
水野が指輪を手放そうと思ったきっかけは、引っ越しだった。
いま住んでいるところよりいい物件があり、移り住むことに決めて荷造りをしていたとき、クローゼットのなかにしまっていた指輪を見つけたのだ。
水野は貴金属鑑定人の資格を持つ知人を訪ね、指輪を買い取ってもらいたいと頼んだ。そこで知人が伝えた指輪の価値は、社長が口にした値段の百分の一ほどにしかならないものだった。
知人曰(いわ)く、よくできたフェイクで、現物の見本品として作られたものだと思う。買取の値段は、美しいアクセサリーとしての評価だ、というものだった。
水野はセンターテーブルにある指輪を、手に握りしめた。
「心変わりなら許せるけれど、私を騙したのは許せなかった。だからといって、復讐なんて大げさなことをするつもりはなかった。人の心を軽んじるような人間なんかと、もう関わりたくないから。でも、あいつがいまでも私を騙しおおせたと思っているとしたら、それは耐えられない。あいつに、私は指輪もお前の気持ちも偽りだったと知っている、そう知らしめたかった」
東堂が説明を補足する。
「水野さまが社長の口から、指輪は偽物だ、と聞きたいとおっしゃったとき、水野さまと社長は個人的な繋がりを持っていると感じた。社長の女性に対する気の多さは、そばに長く仕えている自分がよく知っている。おそらくなにかしらの因縁がある、そう思い、水野さまと別れたあとすぐに社長に連絡した。社長は最初、水野さまと関係があったことを認めなかった。だが事情を伝えるとようやく、三年前に少しだけつきあったことがある、と打ち明けた」
水野が東堂を斜に見る。
「どうせ、私以外にも同じような手で女性の気を引くようなことをしていたんでしょう。だからあなたはすぐに気づいた」
東堂はなにも答えなかった。しかし無言が、水野の言葉を肯定していた。
水野は少し済まなそうに、目を伏せた。
「私も人を巻き込むようなことはしたくなかったの。でも、真正面から行っても、あいつはきっと会おうとはしない。だから、私に会わざるを得ない状況を作ったの」
- プロフィール
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柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。