-短編ホテル-「サンセールホテル」

サンセールホテル

柚月裕子Yuko Yuduki

 水野は広大を見た。
「あなたや支配人たちには、私の個人的な事情で嫌な思いをさせたわね。ごめんなさい」
 広大の耳に、東堂とともに応接室で聞いた水野の言葉が蘇った。
 ─面倒な客だと思うでしょうけれど、これもなにかの縁だと思って諦めてちょうだい。私も心の持っていき場がなくて、こうでもしないと気持ちの整理がつかないのよ。
 あの言葉は、水野の本心だったのだ。
 水野もこんな手の込んだことを、望んでしたのではない。悔しさのあまりこうするしかなかったのだ。
 結果、水野は社長の口から、偽りの指輪を渡したと言わしめた。指輪は本物だと言い逃れをしたら、本物の指輪と同等の弁償金を支払えと要求され、問題は大事になる。場合によっては、自分が水野にしたことを人に知られることにもなりかねない。
 すべてのことが腑に落ちた。しかし、ひとつだけ、まだわからないことがある。
 広大は水野に訊ねた。
「ひとつだけ、お訊ねしてもよろしいでしょうか」
「なに?」
「どうしてこの場に私を同席させたのですか」
 ここに自分がいなくても、水野の目的は達せられる。どうして自分を呼んだのか。
 水野は小さく笑った。
「ひとつはあの男に恥をかかせたかったから。この問題を当事者だけで解決しても、あいつは絶対に懲りない。自分のみっともない姿を部下に─しかもホテルに入りたての新人に見られたら少しは堪(こた)えると思ったの。もうひとつは、あなたの気持ちが嬉(うれ)しかったから」
 広大は記憶を辿った。自分は水野が喜ぶようなことをなにかしただろうか。考えたが、身に覚えがない。
 水野は言う。
「昨日、指輪の色の戻し方を教えてくれたでしょう」
 意外な言葉に、広大は戸惑った。あのとき、水野が喜んだ様子はなかった。
 広大の心中を察したのだろう。水野は済まなそうな顔をした。
「あのときはあいつへの怒りがまだ収まらなかったし、指輪が偽物だと知りながらもとに戻そうとするあなたにも驚いたの。どうしていいかわからなくて、すぐにドアを閉めた」
 水野は手のなかの指輪を見つめた。
「この指輪が本物か偽物かなんて関係ない。高くても安くても、きれいなものはきれいだ。そんなあなたの言葉を聞いて、なんだか気持ちが楽になった。そう、この指輪がどんなものであっても美しいものは美しい。それでいいじゃない、そう思ったの」
 水野は広大を見た。
「あなたには、とても迷惑をかけて申し訳ない気持ちがある。私の心を楽にしてくれた感謝もある。私にとってあなたは、この問題になくてはならない存在だったの。だから、この問題を最後まで見届けてほしかった」
 水野が微笑む。
「ありがとう」

プロフィール

柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。