-短編ホテル-「サンセールホテル」

サンセールホテル

柚月裕子Yuko Yuduki

 広大は胸がいっぱいになった。嬉しいのか苦しいのかわからない。ただ、水野に向かい、深く頭を垂れた。

 白いベンツのクーペに乗り込んだ水野は、エンジンをかけた。
 マフラーから、重厚ないい音がする。
「じゃあ、仕事がんばってね」
 開いている運転席側の窓から、水野が広大に声をかけた。
 見送りに出ていた広大は、元気に返事をする。
「ありがとうございます。どうぞお気をつけてお帰りください」
 水野は社長と会った翌日、予定を早めてチェックアウトした。
 見送りには宮田と三輪、総支配人が並んだ。
 宮田と三輪が、順に水野に声をかける。
「またお越しください」
「お待ちしております」
 宮田と三輪だけは、水野と社長の関係を知っている。広大が教えた。
 水野と東堂からは了解をとった。ふたりとも、今回の件を大いに心配している。彼らにだけは本当のことを伝えたい、そう言うと水野も東堂も、個人情報の取り扱いと同じく他言無用を条件に許諾した。
 事実を知ったふたりはかなり驚きつつも、社長の女性への気の多さは耳にしているらしく、これで少しは懲りただろう、と同情する様子はなかった。むしろ、自分たちを騙そうとしていた水野に寛容さを示した。
 窓が閉まり、水野が片手をあげる。
 広大たちが頭をさげると同時に、車は走り去った。
「いやあ、今回はかなり疲れた」
 宮田が肩から力を抜き、息を吐いた。
 三輪は宮田をたしなめた。
「どこでお客様が見ていらっしゃるかわからないんですよ。しゃきっとしてください、しゃきっと」
 宮田は渋々といった態で、背筋を伸ばした。
 東堂が三輪に同意する。
「そのとおりだ。私たちホテルマンは、常にお客様の目を意識し、お客様に寄り添い、心地よく過ごしていただけるよう努めなければならない。しっかり頼む」
 三人が声を揃えて返事をしたとき、車寄せに一台のタクシーが入ってきた。今日の宿泊客だろう。
 ドアアテンダントが車に駆け寄る。
 宮田と三輪は、仕事に戻るためにホテルへ入って行った。
 あとに続こうとする広大を、東堂が呼び止めた。
「秋羽くん」
 足を止め、振り返る。
 東堂は表情を和らげ、目を細めた。

プロフィール

柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。