よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 蔀(しとみ)を開け、外を眺めていた晴信が呟く。
「敵は動かぬようだな。こちらの出方を窺(うかが)っているのか」
 隣にいた原昌俊が、その疑問に答える。
「動かぬのではなく、動けぬということもあるのでは」
「動けぬ……なにゆえか?」
「敵の先陣は、われらを釣り出す餌のようなもの。おそらく、総大将から武田が動くまで退(ひ)いてはならぬと命じられているのではありませぬか」
「なるほど」
「これは国境を巡る戦い。小笠原の本隊は、われらがこの急襲に対して、どのくらい素早く動き、どう対処するのかを見定めるつもりなのではありませぬか」
「ならば、小笠原が出張ってきたのは、われらを試すためだと?」
「あながち、それだけとも言えませぬ。もしも、われらが出陣を逡巡(しゅんじゅん)したり、対応がもたついたりしたならば、国境を越え、われらの足場をいくつか落とそうとしていたやもしれませぬ。敵方の兵数を見れば、ただの様子見とは思えませぬ。小笠原長時もそれなりの覚悟を決めて出張ってきたのではありませぬか」
「加賀守、小笠原は信濃守護として『武田は国境を越えるな』と警告をしに来たのであろうか?」
「他の信濃勢を巻き込んでいるところを見れば、そのような意図を含んでいることは間違いありますまい。されど、それ以上に小笠原長時が虚勢を張っているような匂いが漂っている気がいたしまする。背後から誰かに煽(あお)られているのではありませぬか。信濃守護としての骨の硬さを見せよ、とでも」
 皮肉な口調で言ってから、原昌俊が眉をひそめる。
「……やはり、村上(むらかみ)の仕掛けだと考えるべきか」
 晴信も険しい面持ちになった。
 ――村上義清(よしきよ)の考えならば、だいたいは読めている。
 原昌俊が腕組みする。 
 ――あれほど信濃の者どもを怖れさせた信虎様を御隠居させ、晴信様が家中をまとめたということが未だに信じられないのであろう。年齢から考えれば、とうてい信虎様の手腕には及ばぬはずだと思いながらも、現実には代替わりが起こっており、もしかすると相当な器量かもしれないという疑念が晴れぬのだ。それゆえ、こうして大仰な挑発を行っているのであろう。村上義清は小笠原を使うて晴信様の器量を見極めたくて仕方がないのであろう。ならば……。
「村上義清が仕掛けてきたのならば、かえって幸い。疾風の如く敵を退け、眼にものを見せてやりましょう。まずは、疾(はや)さが肝心。それが相手に最も震驚を与える方法。そういった意味で、すぐに出陣をお決めになったのは御英断であったと思いまする」
「孫子(そんし)にならえば、疾きこと風の如し、か……」
 晴信は孫子の兵法に書かれた一節を思い出す。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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