第三章 出師挫折(すいしざせつ)4
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
先ほど思いだした一節の最後にも「迂直の計を先知する者は勝つ」とあるように、軍争篇の中でも「迂直の計」は最も重要な概念であり、冒頭にも出てくる。
『孫子曰(いわ)く、およそ兵を用うるの法は、将命を君より受け、軍を合(がっ)し、衆を聚(あつ)め、和を交えて舎(とど)まるに、軍争より難きはなし。軍争の難きは、迂をもって直となし、患をもって利となす。ゆえに、その途(みち)を迂にして、これを誘うに利をもってし、人に後れて発し、人に先んじて至る。これ、迂直の計を知る者なり』
それが出だしの言葉だった。
――軍争の難きは、迂をもって直となし、患をもって利となす。つまり、迂回路を近道となるように、心配事を利点へと変えるようにする。それが実戦における難しさであり、勝つための極意か。皆に気後れを見せまいとして出陣を即断したが、偶然にもそれが功を奏し、孫子と繋(つな)がっていたようだ……。
晴信は改めて己の脳裡(のうり)にまで浸潤している孫子の奥深さを痛感していた。
「加賀守、こたびの戦いを首尾良く終えたとしても、結局は重大な問題が残ったままなのであろうな?」
晴信が含みのある問いを投げかける。
――さすがに晴信様はこたびの真の問題に気づいておられるようだ。もしも、ここで小笠原を撃退したとしても、それは始まりに過ぎぬことも。
そのように思い、原昌俊は本音で答えた。
「そうなるでありましょうな。こたびの戦いが終わったならば、信濃に対する当家の方針を再考せねばなりますまい。それは内政にも大きく関わる問題にござりまする」
「最初の問題は、やはり諏訪家との関係か」
「仰せの通りかと」
「たとえ諏訪家が小笠原と和睦したにせよ、当家との盟約は残っているわけで、なにゆえ頼重殿が通行を許したのか、確たる理由が思いつかぬ。そなたに何か、心当たりはあるか?」
「いいえ。もう少し調べてみねば、お答えしかねまする」
「さようか……」
そう呟き、晴信は俯(うつむ)く。
ひと時、何かを思案した後に、おもむろに顔を上げる。
「加賀守、そなたに話しておかねばならぬことがある」
「何でござりましょう」
「禰々(ねね)がおめでたのようなのだ」
晴信は諏訪に嫁いだ妹が懐妊したことを昌俊に告げる。
「実は、信方から大体の話は聞いておりました」
「やはり、そうか。ならば、話は早い。禰々の懐妊と諏訪家との盟約は、分けて考えねばならぬとわかってはいるのだが、妹が板挟みになってしまうのではないかと心配でならぬ」
「ご心痛はお察しいたしまする」
「対処が甘くなってはならぬと己に言い聞かせている。……言い聞かせてはいるのだが」
「晴信様、諏訪のことは信濃に対する当家の方針を決めた後に考えるとして、今は眼前の戦いに専心いたしましょう」
原昌俊は保留を提案する。
「……わかった。そうしよう」
晴信も迷いを振り切るように大きく頷いた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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