よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 しばしの静寂が辺りを包む。
 ――やはり、動いてはこぬか。ならば、少し煽(あお)ってやるまでよ。
 何の外連(けれん)もなく愛駒を進め、原虎胤が天に槍を突き上げる。その切先をゆっくりと下げ、狙いを定めるように敵陣に向けた。
「われこそは武田家先陣大将、原美濃守、虎胤なり! 武田の庭先に土足で踏み入る、うぬらはどこの慮外者(りょがいもの)ぞ! 将がいるならば、姿を見せて答えてみよ!」
 野太い声が響き、山裾に谺(こだま)する。
 しかし、寂として返答の声はない。
「名乗りも上げられぬ臆病者か。ならば、さっさとここから去れい!」
 その時だった。
 小笠原の先陣から風を切って何かが飛ぶ。
 印地打(いんじうち)だった。
 足軽などが行う投石の挑発である。 
 だが、石礫(いしつぶて)が届くような距離ではなかった。
「さようなものが当たると思うか、莫迦者(ばかもの)めが!」
 原虎胤は悠々と馬首を返し、元の位置へ戻る。
「皆の者、能なしどもを笑うてやれ!」
 敵に背を向けたまま言いながら、鞍から浮かせた尻を叩いて見せる。 
 それを見た周囲の味方から哄笑(こうしょう)が沸き起こった。
 そこまで挑発されても、小笠原勢は動かない。時折、まばらに印地打の石礫が飛んでくるだけだった。
 ――小勢の敵を目の当たりにしても、この程度の反応か。大方、後方の本陣に伝令でも走らせ、指示を仰いでいるのであろう。
 そのように判断した原虎胤は意外な行動に出る。
「鶴翼(かくよく)!」
 右手の槍を突き上げながら叫ぶ。
 すると、これまで後方にいた兵たちが素早く動き、瞬く間に陣形を変化させる。左右両端の騎馬が大きく前方へ出て、まるで鶴が翼を広げる形になった。
 あたかも敵前で調練を行うような有様だった。
 鶴翼の陣は敵よりも自軍の兵数が勝っている時に、攻めてきた敵を両翼で包み、絞りながら殲滅(せんめつ)する時に使われる。それを五百ほどの小勢が「攻めてこい」と言わんばかりに展開したのである。
 小笠原の兵たちは、その光景を呆気(あっけ)に取られて見ているしかなかった。
「鋒矢(ほうし)にて撤退!」
 原虎胤は間髪を入れずに号令を発する。
 鶴翼の陣形を取っていた騎馬隊が一瞬で馬首を返し、鏃(やじり)の形にまとまり、素早く駆け出す。一隊は文字通り矢の如く敵兵の視界から遠ざかり、しばらく姿を見せることもなかった。
 しかし、原虎胤の挑発はこれに留まらない。敵が気を抜いた頃に再び現れ、手を変え品を変えて相手をからかう。陽が傾くまで、それを変幻自在に繰り返した。
 先陣の小笠原勢はなすすべもなく傍観しているしかなかった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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