よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 そこへ軍装を整えた原虎胤がやって来る。
「御屋形様、支度が済みましたので、進軍の許可をいただきにまいりました」
「さようか。美濃守、どれぐらいの兵を連れていくつもりか」
「選りすぐりの五百でよいかと」
「五百!?」
 晴信は驚きの声を発する。
「……たった……それだけか。……当初の予定では一千ではなかったのか」
「はい、考え抜いた末に五百といたしました。われらは敵を油断させるための餌、つまり釣針に付けた海老(えび)の如く見えればよいかと」
「敵先陣の兵数は、どのくらいと見ておるのか?」
「まあ、少なく見積もって三千はおりましょう」
「もしも、その半数で襲ってきた時は大丈夫なのか」
「われらは逃足の早い騎馬隊で編制されておりまする。三倍の敵が襲ってきたならば、尻を叩きながら逃げるだけにござりまする。逃げるならば、あまり多すぎぬ方がよろしかろうと。そういった意味で、選りすぐりの五百。敵が『武田はそれだけしか出せぬのか』と思うてくれれば、われらの思う壺」
 原虎胤は余裕の笑みを見せた。
「わかった。くれぐれも無理をせぬように」
「駿河(するが)殿と飯富が敵の死角に入れるよう、われらが時を稼ぎまするので、どうかお任せくださりませ。その後は当初の策通りに」
「では、よろしく頼む」
「御意」
 原虎胤は武者礼をとり、頭を下げる。
 それから素早く踵(きびす)を返し、将兵たちが待つ追手門(おうてもん)へ向かった。
 先達城の門を悠々と開き、割菱(わりびし)と十曜(じゅうよう)の旗指物を背負った騎馬武者たちが出て行く。瀬沢のぎりぎり手前、境川の畔(ほとり)まで駒を進め、魚鱗(ぎょりん)の陣形で小笠原の先陣を睨んだ。
 敵陣は対岸の小高い丘の上にあり、幔幕(まんまく)と帟(ひらはり)を設え、前方に逆茂木(さかもぎ)を並べていた。武田勢の一隊が出てきたことに気づき、足軽たちが逆茂木の後方から様子を窺っている。
 境川という名はついているが、東の山側から釜無川(かまなしがわ)に流れ込む小川にすぎず、簡単に踏み越えることができる。それだけに両軍はすでに指呼の間にあり、否が応でも緊張が高まった。
 そんな中で、原虎胤があえて魚鱗を選択したのは、少ない兵で陣を大きく見せるためである。
 敵がそれに気づけば、『少ない兵しか出せない武田の将が虚勢を張っている』と考えるはずだった。
 しかも、通常、魚鱗の陣形では三角形の底辺の中心に大将を配置するのだが、原虎胤はその頂点、つまり一番前に陣取っていた。
 ――さて、小笠原の先陣はどう出てくる。
 原虎胤は微動だにせず前方を見据えていた。
 その姿を、小笠原の兵は固唾(かたず)を吞んで見つめている。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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