よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 それから二人は愛駒を駆り、先達(せんだつ)城から新府へと戻る。
 すぐに躑躅ヶ崎館(つつじがさき)へ向かい、主君に報告を行った。
 すべてを聞き終えた晴信(はるのぶ)はしばらく黙って話を反芻(はんすう)していた。
 ――この身が苦慮している間に、板垣(いたがき)と加賀守(かがのかみ)がここまで動いてくれたのか……。
「加賀守、守矢殿が禰々(ねね)と子を匿(かくま)ってくれるという話は信じても大丈夫か?」
 晴信が原昌俊に訊く。
「何があろうとも、それだけは完遂せよと申してありますが」
「さようか……」
 晴信は思案顔になる。
 ――ここが決断の刻(とき)か。機を逸すれば、ますます自縛の念によって動きが取れなくなるだけだ。
 すぐに覚悟を決めた。
「ならば、これ以上、いたずらに結論を先延ばしするまでもなかろう。板垣、すぐに軍(いくさ)評定を開いてくれ」
 その言葉の意味を、二人の重臣もわかっていた。
「承知いたしました」
 信方は深く頷(うなず)いた。
 この日の夕刻、軍評定が招集され、大広間に家臣たちが勢揃いした。
 冒頭で、晴信が己の決意を述べる。
「このたび、余は諏訪に攻め入ることを決心した。……いや、もっと、明確に言った方がよかろう。攻め入るだけでなく、諏訪を奪(と)る!」
 その言葉に、評定の場が小さくどよめいた。
「佐久(さく)での勝手な和睦に加え、当家との盟約を破り、小笠原(おがさわら)の軍勢を導き入れたことは看過できぬ。もはや、これらのことを諏訪頼重(よりしげ)に糺(ただ)すつもりはない。こたびの総攻めをもって手切といたす。諏訪は甲斐と信濃(しなの)を繋ぐ要衝であり、かの地を制することは当家にとって必至であると考える。厳しい戦いが続くことになると思うが、性根を据えてかかるつもりだ。皆、よろしく頼む」
 晴信の決意表明に、家臣たちの表情も引き締まる。
「ついては、この戦(いくさ)に周囲から与力の申し入れがあった。それについては、板垣から報告してもらう」
 それを受け、信方が諏訪上社の守矢頼真(よりざね)、下社の金刺堯存と上伊那勢が与力を申し出た経緯を伝える。
 一同は真剣な面持ちで話に聞き入っていた。
「諏訪で戦を構える当家にとって渡りに船の申し入れなのだが、さりとて、すべてを手放しで信じるわけにはいかぬ。かの者たちの動向には監視の眼を光らせ、慎重かつ迅速に戦いを進めたい。では、陣立の詳細を加賀守に説明してもらう」
 信方の話を引き取り、原昌俊が小姓に大地図を運ばせ、布陣についての考え方を述べた。
 一刻半(三時間)ほどの話し合いが続き、家臣たちの持場などが決められる。
 入念な確認が行われた後、晴信が軍評定を締めた。
「出陣は来たる六月二十四日とする。皆、抜かりなく支度を進めてくれ。では、これにて評定を仕舞とする」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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