よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 一同が大広間を後にする中、晴信の処(ところ)に弟の信繁(のぶしげ)が駆け寄ってくる。
「兄上、こたびは出陣のお許しをいただき、まことにありがとうござりまする」
 急戦であった前の合戦に、この弟は出陣していない。
 今回の出陣は初陣以来の実戦であり、相当な意気込みを持っているようだ。
「こたびは短期決戦だ。されど、あまり逸(はや)りすぎるな。そなたは備前守(びぜんんのかみ)と共に戦況を冷静に見極めよ」
「はい。承知いたしました」
 信繁は深く頷いてから、何かを言いたそうに兄を見る。
「どうした、何か言いたいことがあるなら、遠慮なく申せ」
「……兄上、禰々は……どうなるのでありましょうや?」
 不安そうな面持ちで、信繁が訊ねる。
 晴信と同じく、この弟も禰々とは異母兄妹であった。
 禰々は信虎(のぶとら)と側室の間に生まれた子であったが、武田家の女子(おなご)として他家へ嫁ぐことが前提となっていたため、物心つく前から正室の大井(おおい)の方(かた)に引き取られ、兄や姉たちと分け隔てなく育てられている。特に、信繁とは年の端も近く、二人は幼少の頃から一緒に時を過ごすことが多かった。長男として他の子供たちと隔絶され、特別な育てられ方をした晴信よりも遥かに身近にいたのである。
 信繁は禰々を可愛がっており、それだけに妹を思う気持ちは強いようだ。
 晴信もそのことをわかっており、何とか弟を安心させようと思っていた。
「信繁、禰々に男子が誕生したことは知っておるな」
「はい、母上から聞いておりまする」
「禰々の子は諏訪惣領(そうりょう)家の血筋に連なる者だ。諏訪との縁を切りたくない当家にとっては、珠(たま)のような男子である。当然、諏訪大社の者たちも、そのことを重く見ており、たとえ当家と頼重殿が戦になっても、禰々と子の身柄を守ってくれると約束した。だから、案ずるな。禰々と子は、必ずや無事に新府へ連れ帰る」
「わかりました」
 信繁は兄の強い決意を知り、やっと晴れやかな顔になる。
「それがしは余計なことを考えず、眼前の戦いに専心し、己の役目を果たしまする」
「頼んだぞ。信繁、それはそうとして……」
 晴信は何かを言いかけ、思案顔になる。
「なんでありましょう、兄上」
「いや……。実はこの後、母上に諏訪攻めのことをお伝えせねばならぬ。できれば、そなたも一緒に来てくれぬか。そなた同様、母上も相当に禰々のことを御心配なさっているゆえ、二人で必ず連れ帰ると約束すれば、少しはお気持ちも晴れるのではないかと思う。なるべく安心してもらいたいのだ」
「承知いたしました。この身で事足りるのならば、是非、ご同席させていただきとうござりまする」
「さようか。それは助かる。では、参ろうか」
 晴信は信繁を連れて母親の室へと向かう。
 その二人の姿を、少し離れた処で信方と甘利(あまり)虎泰(とらやす)が見ていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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