第三章 出師挫折(すいしざせつ)7
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「駿河(するが)殿、何と申せばよいか、その……」
甘利虎泰が思わず言葉に詰まる。
「……万沢(まんざわ)での……あの苛烈な一夜を越えてからというもの、晴信様と信繁様のご関係が一変しもうした。あれほど仲睦まじくおられる姿を見ると、泪(なみだ)が出そうになってしまいまする。まことに、よかった」
「そうだな。元々、互いの才と能を認め合うておられた御兄弟なのだ。己が保身のためだけに仲を引き裂こうとする、飯田(いいだ)虎春(とらはる)のような者がいなくなれば、あれが本来の御姿なのであろう」
「信繁様はこれまでの明朗な笑顔を取り戻されました。それに毎日、晴信様の事ばかり話しておられる。いま兄上様は何を考えておられるのだろう、と」
「あの夜、しっかりと絆(きずな)を結び直されたのだな。おそらく、信繁様は若の右腕となられるであろう。いや、かけがえなき分身というべきかもしれぬ。そんな予感がある。御二人が当家の両輪となられた時、われらも安心して身を引くことができる」
「少々、気が早すぎまするぞ、駿河殿。これから始まる信濃の戦は、まだ果てが見えておりませぬ。われらが骨身を削って戦働きせねば」
「確かにな。ここからが正念場だ」
信方は頭を搔(か)きながら苦笑した。
そこに、原虎胤(とらたね)が近づいてくる。
「なんでござるか、二人して、楽しそうにひそひそと?」
その嗄(しわが)れた声に驚き、信方が振り向く。
「……鬼美濃(おにみの)」
「それがしも末席にお加えくだされ」
「いや、ただ甘利と雑談をしていただけだぞ」
「またまた、ご冗談を。あのように楽しげな話しぶりを久々に見ました。ただの雑談のわけがありますまい。それがしも仲間に入れてほしい。おお、そうだ。これより駿河殿の屋敷で一献酌み交わしながら、話の続きをするのはいかがか。訊ねたきこともありますゆえ」
「おいおい、出陣間際に蟒蛇競(うわばみくら)べはできぬぞ」
信方は困ったような表情で原虎胤を見る。
「軽く一献ならば、よいではありませぬか。この戦を占う上でも、出陣前の固めの盃は大事じゃ」
「軽く一献と申しても……」
信方は「いかように思う?」とでも言いたげな面持ちで甘利虎泰に目配せする。
――まあ、深酒にならぬならば……。
そんな意味をこめるように、虎泰が苦笑しながら小さく頷いた。
「……では、少しだけな。屋敷へ移ろう」
信方が顰面(しかみづら)で答える。
「かたじけなし」
原虎胤が髭面(ひげづら)を歪(ゆが)めて笑う。
三人は大広間を出て、信方の屋敷に向かおうとした。
それを見た飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)が眼を剥いて駆け寄る。
「皆様方、お揃いで件(くだん)の会にござりまするか?」
「件の会?」
信方が眉をひそめて聞き返す。
「はい。いつもの寄合ならば……」
虎昌は盃を呷(あお)る仕草を見せながら笑う。
「それがしも御相伴にあずかりたく存じまする」
「やれやれ……。まあ、仕方ないか。そなたも付いてまいれ」
「有り難き仕合わせ」
飯富虎昌が嬉しそうに何度も頭を下げた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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