よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)11

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「花倉(はなくら)の乱から六年。武田家との同盟も含め、われらは万全の支度を調えてきた。武田もようやく本腰を入れて信濃(しなの)へ動き出し、北条(ほうじょう)の眼が東に向いて後顧に憂いのない、ここが好機。このまま三河を制し、尾張の那古野(なごや)城まで迫るぞ。元々、あの城は今川家のものであったのだからな」
 この軍師が言う通り、先代、今川氏親(うじちか)の頃、尾張の那古野城は今川家のものだった。
 海道一の弓取りと武名を馳(は)せた氏親は、遠江(とおとうみ)で尾張守護の斯波(しば)義達(よしたつ)を打ち破り、これを境に斯波家の勢いは衰退した。
 氏親は尾張にいた今川の一族、那古野家の領地に城を築き、末子の氏豊(うじとよ)を養子として入れ、この者を那古野城主とした。
 今川氏豊は斯波義達の娘を娶(めと)り、この縁組によって尾張那古野の支配を万全のものとする。連歌を好んでいた氏豊は京から和歌指南の公家を呼び寄せ、風雅の会を催すようになった。
 ところが、そこに眼を付けたのが斯波家の被官であり、勝幡(しょばた)城々主の織田信秀だった。
 斯波家の被官として氏豊に取り入り、那古野城で催される連歌会に足繁く通い、やがて何日も逗留(とうりゅう)を許されるほど信用された。
 そして、享禄(きょうろく)五年(一五三二)の夏、織田信秀が連歌会の最中に倒れ、蟲(むし)の息となる。
『家臣に遺言をしたい』
 信秀の頼みを聞いた今川氏豊は、この漢に同情し、迂闊(うかつ)にも織田家臣の入城を許してしまった。
 その夜、織田信秀は城内に引き入れた手勢を使って火を放ち、内外からの奇襲で那古野城を乗っ取った。
 捕縛された今川氏豊は命乞いをして助けられたが、城を追われ、女方の親戚を頼って京に逃れた。
 その六年前に今川氏親は薨去(こうきょ)しており、駿府(すんぷ)ではすでに跡目を巡る暗闘がはじまっていたこともあり、那古野城の奪還に動くどころではなくなっていた。
 その間隙を縫い、織田信秀は今川領を奪った。
 それ以来、那古野の一帯も織田家の支配下に入り、今川家は尾張での大事な拠点を失ってしまったのである。
「当家の内訌(ないこう)につけ込み、姑息(こそく)な奇計を用いて城を奪うことしかできぬような者に、どれほどの戦ができるか、こたびは織田信秀をしかと値踏みしてやろうではないか。そなたらは野戦、城攻め、どちらでも即応できるよう支度を怠るな」
「はっ!」
「すぐに戦局は動く」
 太原雪斎は眼を細めて宙を睨(にら)んだ。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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