よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)11

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「……菅助、武田家への仕官ならば取り次げぬこともない。されど、確実に召し抱えてもらえるとも限らぬ。もしも、それが叶(かな)わなかった時、そなたはどうする?」
「その時は再び乱世を放浪し、仕官の道を探しまする」
「再び放浪か……。その果てに、そなたが見知らぬ他家へ仕えるというのも不憫(ふびん)でならぬゆえ、何とか武田家に召し抱えてもらえるよう最善を尽くしてみるか。ところで、そなたが晴信殿に会うた時、いかにも武骨な風情を漂わせた大柄の武将が傍らにいなかったか?」
「おられました。護衛のように、ぴたりと側に寄り添い」
「その方が傅役(もりやく)の板垣(いたがき)信方(のぶかた)殿だ。この身は訳あって何度か板垣殿とお会いしており、代替わりの際に密約を結んだのも、かの御方だ。板垣殿に書状を送り、そなたが仕官できるようお願いしてみよう。いま武田家の中で最も信頼され、力のある重臣だ。それなりの誠意を尽くせば、何とかしてくれるであろうて」
「まことにござりまするか、雪斎殿」
「この戦が終わったならば、諏訪での戦勝を祝う使者を甲斐へ出さねばなるまい。高井実広あたりを遣いに出そうと思うておるゆえ、その時にそなたも供するがよい。それまでに松本へ行き、武田家の宮笥(みやげ)となるような話を仕入れてまいれ」
「わかりました。過分なお骨折り、有り難うござりまする」
「盟友の武田家とはいえ、そなたを失うのはまことに惜しい。仕官しても、便りだけは欠かさずにくれるな?」
「もちろんにござりまする」
「では、戦が始まる前に出立するがよい」
「承知いたしました」
 山本菅助は深々と頭を下げ、床几から立ち上がる。
 ――菅助の奴がまさか武田晴信を選ぶとはのう。少々驚いたが、わが眼にも狂いはなかったということか……。
 ぎこちない歩き方で幔幕裡を出て行く異形の者を、雪斎はじっと見守っていた。
 ――さて、こちらは、こちらの戦を片付けるとするか。
 太原雪斎も床几から立ち上がった。
 この翌日、黎明(れいめい)の前に安祥城を発した織田信秀が、大胆にも矢作川を渡って対岸の上和田(かみわだ)に布陣した。
 相手が野戦を選んだということで、太原雪斎は岡崎城の東南に位置する小豆坂(あずきざか)の上に陣を構えた。
 そして、天文十一年(一五四二)八月十日、両軍はこの小豆坂で激突した。
 これが今川家と織田信秀の最初の戦いとなったが、この時は決着がつかず、因縁を残したまま、この地で再び戦うことになる。
 太原雪斎と今川勢が駿府へ帰還する頃、信濃で再び不穏な動きが起こっていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number