第三章 出師挫折(すいしざせつ)11
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「諏訪から松本へ戦いが飛び火すれば、しばらくは塩尻に北塩が入りにくくなるであろう。少し塩を増産しておいた方がいいかもしれぬ。良い商いになりそうだからな。まあ、こうして矢銭が必要な機会が多くなるからな」
雪斎は諏訪へ侵攻した武田家がそのまま小笠原家と戦いになると読んでいるようだった。
それは菅助も同じである。
「雪斎様、商いの裁量を預けていただければ、戦の気配を話の種に、南塩を仕入れる権利を高値で売ってまいりまする」
松本宿は塩尻のすぐ北側にあり、ここが戦となれば、東から進軍する武田家が塩尻の周辺を押さえようとすることは眼に見えている。そうなれば、北塩は松本宿の北側で停滞する怖れがあった。
そのため、わざわざ信濃の中部へ出向こうとしていたのである。菅助の隻眼は常に戦の火種が燻(くすぶ)る場所に向けられていた。
「菅助、そなたが事前に調べてくれた三河と尾張の状況は、こたびの戦にもたいそう役だっておる」
「有り難き御言葉にござりまする」
「それにもかかわらず、当家への仕官がままならぬとは、まことに面目次第もないわ」
「雪斎様のせいではありませぬ。それがしの力が今川家の仕官には及んでおらぬということにござりましょう」
「いや、そなたの目利き、そこから生まれる戦術眼、兵法の心得、築城術に至るまで申し分ない力量が備わっておる。それをたかだか見目や形貌(なりかたち)の如(ごと)きの理由で遠ざけるとは、御屋形(おやかた)様もまだまだ君主としての修養が足りぬ。まことに、情けなや」
「……雪斎様にそう言っていただけるだけで、身に余る光栄にござりまする」
六年前、齢(よわい)三十七の菅助は浪人の身であったが、今川家に仕官を望み、庵原忠胤の屋敷に寄宿し、朝比奈信置を通して雪斎にそれを願った。
ちょうど天文(てんぶん)五年(一五三六)、花倉の乱が終結し、義元が新たな惣領となった直後である。
雪斎は菅助の話を聞いて才気の片鱗(へんりん)を感じ、主君に召し抱えを進言したが、義元は菅助の異形を怖れ、承諾しなかった。
その後、菅助は雪斎の預かりとなり、仕官のための功を積み重ねるため、歩荷(ぼっか)の商人に化け、軍師の影として諸国の諜知(ちょうち)に動き廻った。
菅助の働きは、雪斎にとっても望外の収穫をもたらし、何度か主君に召し抱えを進言したが、結局、今川義元が仕官を許すことはなかった。
菅助としても、このまま商人の真似をしながら浪人を続けるわけにはいかない時期に差しかかっていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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