よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)17

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「こちらこそ、よろしくお願い申し上げまする。何なりとお訊ねくださりませ」
 菅助も平然と答えた。
「では、せっかくの縁ゆえ、本日から板垣の下で山本菅助を預かることにする。不都合はないか?」
 晴信の決断の早さに驚きながら、高井実広は同意する。
「ござりませぬ」
「重ねて、恐悦至極にござりまする」
 山本菅助は深々と平伏した。
 今川家の使者との面会を終え、晴信は広間を後にしながら原昌俊に訊く。
「加賀守、そなたは雪斎殿の思惑をいかように読むか?」
「あの者が今川家の間者(かんじゃ)かもしれぬということにござりまするか」
「まあ、さような危惧がないと言えば嘘になる」
「そうだとしても、諸刃の刃にござりまする。あの者は今川家に当方の様子を伝えることができるでしょうが、われらが問えば今川家の内情を話さざるを得ませぬ。それがしは最初から遠慮なく問い詰めるつもりにござりまする。それに答えた上で、あの者が当家の様子を駿府に伝えるならば、それはそれでよし。当面、今川家とはそのぐらいの風通しがあった方がよかろうと存じまする」
「確かにな」
「案外、雪斎殿は本気であの者を推挙してきたのかもしれませぬ」
「なにゆえ、そう思う?」
「使者は今川家に空席がなかったと申しておりましたが、あの見目が風雅を好む義元殿のお気に召さなかったのやもしれませぬ。それゆえ、才を惜しんで当家への紹介を行ったとは思えませぬか。まあ、都合良く解釈するならば、これから信濃で一人でも多くの人財が必要となる当家の事情を、雪斎殿が慮(おもんぱか)ってくれたということになりますか」
「そこまでしてくれる相手だと思うか?」
「今川家にも事情がありまする。背腹に敵を抱え、下伊那辺りでは患わせられたくないというのが本音にござりましょう。できれば、当家がすんなりと伊那全域を押さえ、今川は北を向かずに済ませたいということではありませぬか」
「なるほど、あくまで狙いは遠江と河東(かとう)の死守か」
「ともあれ、あの山本菅助がどれほどの働きを見せるかで、おのずと雪斎殿の思惑がわかってくるのではありませぬか。まずは、信方が申したように、お手並み拝見とまいりましょう」
 原昌俊は薄く笑いながら言った。
「そうするとしよう」
 晴信も苦笑を交えながら呟(つぶや)いた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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