第三章 出師挫折(すいしざせつ)17
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
今川家の使者、高井実広が駿府に戻った頃、暦は師走(しわす)を迎える。
晴信は諏訪と新府を忙しく行き来しながら年を越そうとしていた。
天文(てんぶん)十二年(一五四三)を迎え、年始の祝賀もそこそこに晴信は上原城に赴く。とにかく一刻も早く諏訪の安定を計るためである。
まだ下伊那、佐久(さく)と仕置の戦いは残っており、まずは信濃での足場を固めることが先決だった。
晴信は跡部(あとべ)信秋(のぶあき)に高遠頼継の諜知(ちょうち)を命じ、動向を探りながら信方や原昌俊と今後の方針について協議する。
「伊賀守(いがのかみ)の報告から判断すれば、上伊那の高遠城を攻めるのは難しそうだな」
晴信は腕組みをしながら言う。
「前(さき)の戦いで高遠一揆(いっき)の勢力はだいぶ削ぎましたが、高遠頼継に籠城されてしまっては、力攻めは難儀にござりまする」
信方の答えに、原昌俊も小さく頷きながら意見を述べる。
「御屋形様、禰津元直の進言を容れ、先に佐久を制することを考えてはいかがにござりまするか」
「佐久か」
「はい、佐久ならば若神子(わかみこ)と諏訪の両方から兵を出すことができ、禰津城の押さえもあるとすれば、三方からの攻めが利き、われらに地の利もありまする」
「確かに、そうだが……。関東管領(かんとうかんれい)の介入を招くと、厄介なことになるのではないか」
晴信は顔をしかめる。
「それならば、心配には及びませぬ。今、関東管領の山内上杉(やまのうちうえすぎ)は武蔵(むさし)で北条(ほうじょう)や同族の扇谷(おうぎがやつ)上杉と三つ巴(どもえ)の戦いになっておりまする。わざわざ碓氷(うすい)峠を越えて出張ってくる余裕はないと存じまする」
「武蔵での戦いに釘付けか。して、佐久の標的は?」
「まずは長窪(ながくぼ)城の大井(おおい)貞隆(さだたか)かと。小笠原(おがさわら)の庶流でもあり、勝手に諏訪家から長窪城を奪還したということで成敗の名分も立ちまする」
原昌俊の意見に、信方も同調する。
「そういえば、禰津元直が大井貞隆を討伐するならば、幾人かの家臣を調略できるかもしれぬと申しておりました。あの者に任せてみてはいかがにござりましょう」
「なるほど、まずは佐久の仕置を見据え、下拵(したごしら)えから考えてみるか」
晴信は少し視点を変える選択をした。
そうして睦月(むつき)の半ばを過ぎた頃、突然、新府から諏訪に早馬がやって来た。
伝令の者が蒼白(そうはく)な顔で報告する。
「お、御屋形様、於禰々(おねね)様が……於禰々さまが、御危篤にござりまする」
「禰々が危篤!?」
「は、はい。昨晩、容態が急変なされまして……」
「まことか」
「信繁(のぶしげ)様より、急ぎ新府へ戻られたし、との御伝言を承っておりまする」
「わかった。すぐに出立する」
晴信は手早く身支度を済ませ、伝令を含めたわずかな供を連れ、諏訪を出る。
愛駒を駆り、一気に新府を目指した。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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