よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 密談が終わり、桑原城から兄を送り出した諏訪満驍ヘ、すぐに腹心の有賀(ありが)昌武(まさたけ)を呼ぶ。
「いかがにござりましたか、満體a」
「出家してから、兄者はすっかり腑抜(ふぬ)けになってしまった。あんな弱腰では、たとえ惣領になったとしても、誰一人として付いてくるまい。あれは当てにできぬ」
 諏訪満驍ェ不機嫌そうに吐き捨てる。
「さようにござりましたか」
「武田と相対するには人が足りぬ。こたびの話を餌に、高遠頼継と藤澤(ふじさわ)頼親(よりちか)あたりを釣ってみるとするか。昌武、書状を認(したた)めるゆえ、信頼できる者を見繕い、届けさせてくれ」
「承知いたしました」
 有賀昌武が頷(うなず)く。
「まだまだ諦めてたまるか。諏訪の宗家を、武田には渡さぬ」
 両腕を組み、諏訪満驍ェ呟く。
 晴信の知らないところで陰謀が画策されようとしていた。
 ところが、ここまでの一部始終を、天井の節穴から見ている者がいた。 
 その話を携え、黒装束に身を包んだ間者(かんじゃ)は、音もなく桑原城の天井裏から立ち去る。宵闇に紛れてひた走り、上原城下にある屋敷へと入っていく。
 そこは武田家の諜知(ちょうち)を担う跡部(あとべ)信秋(のぶあき)の居館だった。
 奥の一室の前で跪(ひざまず)き、黒装束は中に声をかける。
「跡部様、蛇若(へびわか)にござりまする」
「蛇若か。入れ」
「はっ。失礼いたしまする」
 蛇若は音もなく襖(ふすま)を開閉し、素早く室内に入ると覆面を外す。
 それから、跡部信秋に桑原城での密談の内容を報告した。
「やはり、諏訪満隆は隠し子の件に気づいておったか。抜け目のない奴めが。妙な動きをするとすれば、あの者ではないかと目星をつけていたが、どうやら当たりのようだな。兄の満隣は謀叛の片棒を担ぐ気はないのだな?」
「はっ。すっかり腰が引けている様子にござりました」
「それで高遠頼継と藤澤頼親の尻を叩(たた)こうという魂胆か。浅はかな奴めが」
 跡部信秋は嗤笑(ししょう)する。
「蛇若、諏訪満隆が届けようとしている書状を奪うことはできるか?」
「はっ。仲間を幾人か使うてよろしければ、造作もありませぬ」
「では、その書状を奪って中身を書き写してから、使者の振りをして書き写した書状を高遠頼継と藤澤頼親に届けるがよい。当然、返書があるだろうから、それも奪ってこい。さすれば、二つを合わせて謀叛の証拠とし、御屋形(おやかた)様にお話しすることができる」
「はっ。承知いたしました」
「こたびの任務が首尾良く終わった暁には、われらの念願が叶(かな)うやもしれぬぞ。それがしは駿河守(するがのかみ)殿に前捌(まえさば)きをしておくゆえ、心してかかれ」
「はっ」
 蛇若は短く答え、頭を下げる。
 この者は跡部信秋の諜知を担う忍びの頭領であった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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