よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十回

川上健一Kenichi Kawakami

「シザンヌに毎晩遊びに行って、しかも愛人持つとなると金がかかるからな。だけどいくら自分の会社の金とはいえ、会社の金に手を出しちゃまずいな。公私混同は慎まなくちゃ会社はやっていけないだろう。しかもその理由が愛人じゃ奥さんが怒って離婚するっていうのも当たり前だぞ」
「あのな、だからな、愛人なんていないんだってば。俺が手をつけたのは会社の金じゃなくて、カミサンがせっせと貯(た)めていた貯金だよ」
「尚更悪いじゃないか。シザンヌと愛人のために奥さんの貯金を使い込んじゃお終(しま)いだ。ないがしろにされた奥さんが怒るのも当たり前だぞ。離婚もやむなしだな」
「お前ねえ、勘違いすんなよな。俺はそこまでどうしようもない人間じゃないよ。金を使ったのは今回のことで職人たちの報酬の肩代わりをしたからだよ。それにシザンヌじゃないってば。スザンナ」
「とにかく奥さんの貯金に手をつけたのはまずいな」
「毎月貯金してたのはカミサンだけど、通帳の名義は俺なの。いつか俺が夏の終わりのセミになった時とか、仕事を完全に辞めた時に世界一周旅行しようってカミサンが何とか家計をやりくりしてせっせと貯金してたんだよ。だからカミサンだけの金じゃないんだよ」
「ん? 何だその夏の終わりのセミっていうのは」
 水沼はバックミラーで小澤を見た。バックミラーの端に後方のダンプカーがどんどん近づいていて大きくなっていた。小澤はバックミラーの水沼に小馬鹿にしたように小さく笑う。
「夏の終わりのセミはくたびれ果ててポツンポツンとしか鳴かないからセミリタイア。そんなオヤジギャグもしらないの? とにかくカミサンはもう俺がセミリタイアしたようなもんだから、いつ行く? いつ行く? ってせっついていたんだ。何十年もどこへも旅行に行けなかったから楽しみにしてたんだよ。社長とはいえ小さい会社だからやること多くて休みなんて取れなかったからさ。カミサンも事務とかいろいろ手伝ってくれてたから一緒に何日か旅行するなんて夢のまた夢だったよ。だから俺がその貯めた金をパッと使ったもんだからカンカンに怒ったんだよ。だから離婚だと。そういうことだよ。俺たちが汗水垂らして何十年も爪に火をともして貯めた金だからこそ、俺たちに恩義を感じて黙って仕事をしてくれた職人たちに使う価値があるんだよ。うちの会社は職人たちに助けられてやっていけたし生活できたようなもんだからな。それをカミサンは分かんないんだからどうしようもないよ」
「それはお前の一方的な思い込みで、奥さんは奥さんでお前との世界一周のために何十年も楽しみにしてコツコツ貯めた大事な金だという思い込みがあったんだろう。後ろのダンプ、やけに飛ばしてるなあ」
 水沼はバックミラーから目を離さずにいう。泥に汚れたダンプカーで、周りを蹴散らすように我が物顔で迫ってくる。小澤が身体をよじって振り向いた。バックミラーの中で小澤がじっと後方のダンプカーを凝視する。それからバックミラーの水沼を振り向いた。カッと目を見開いている。
「いよいよ来たぞッ」
 と鋭い声でいってから助手席の山田を覗き込む。
「ん? 何だ山田は、まったくもう。この非常時にのうのうと眠ってやがる」
 助手席で山田がシートに埋もれて丸まっている。首が斜め前に変な形で曲がってゆらゆらと船を漕いでいる。

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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